沢田流鍼灸

2018年1月『国際中医中薬雑誌』
《泽田派见闻录》之针灸真髓
黄洁 张宏 谢嫣柔
国际中医中药杂志, 2018,40(1) : 65-67. DOI: 10.3760/cma.j.issn.1673-4246.2018.01.016

中国の 『国際中医中薬雑誌』の沢田流の『鍼灸真髄(针灸真髓)』の紹介です。

1958年に 承淡安(しょうたんあん)先生 と息子さんが代田文誌著『鍼灸真髄』を中国で翻訳出版されたそうです。 中国中医研究院针灸研究所の黄龍祥先生は、鍼灸家が読むべき最高の本として『鍼灸真髄』を推薦されていました。

明治維新後は漢方が弾圧された時代でした。

そんな中、和田啓十郎先生が『医界之鉄椎』(※1)を出版されて漢方の復興を唱えられました(※2)。

そして、ジャーナリストの中山忠直が昭和初期に「漢方医学の新研究」を出版しました。
前半は漢方を論じて、後半で鍼灸師の沢田健先生を紹介しました。
この「漢方医学の新研究」を読んで、大塚敬節先生が漢方を志して、『皇漢医学』の湯本求真先生に弟子入りしたのは有名な話です(※3)。

この「漢方医学の新研究」の沢田健先生の治療は読む価値があります。
最初は柔術の活法から始まります。柔術では当身をすると内臓に病気を起こし、逆に内臓に病気があると経穴と呼ばれる部分に痛みが起きることが記述されています(p304)。
そして『ヘッド氏帯』と経穴の話が書かれた後に子宮後屈や睾丸炎の針灸治療、そして梅毒の灸治療が書かれています。

沢田健先生は実は、梅毒の灸治療がスタートだったようです。これは雑誌『経絡治療』のなかに貴重な記述がありました。

以下、引用。

【沢田先生のこと】
大正13年(1924年)の暮れのこと、浅草新谷町の日蓮宗寿仙院のまだ大震災のバラック建の庫裏にイガ栗頭で恰幅のよい五十二、三の偉丈夫が訪れてきた。住職の知人で長らく朝鮮で生活していて柔道の達人であり、灸をよくするという方であった。

(1923年関東大震災から)未だ沢山の銘酒街(赤線)が復興景気で、華やかに商売をしていた頃である。当然つきものの性病が蔓延して問題を起こしていた。寿仙院に草鞋を脱いだ沢田という灸点師がこの白首(えりくびまで白粉をぬった女性)達を相手に施灸をして大変に治効をあげて評判が高くなった。梅毒をよく治すというのである。

主として背部の兪穴を用いられているようで、患者の背部をじっと見て居られ、それらしい部分を手のひらで一寸なでて居られると、やがて『病ここにあり』と一言独語して三穴位取穴して米粒大の艾をもって、かなり多壮していた。
手足の穴にも一、二個所施灸して終わるのである。この女達の話を聞くと、先生の灸を三日程受けると大便の時、膿様の粘液が下って、身体が非常に軽くなって梅毒の色々な症状が軽快するそうで、話を伝え聞いた白首連が連日押しかけてくるので寺では一寸困ったような顔をするようになり、また、沢田先生の信者もだいぶ増加して、移転して専門の治療所を持つような話が始まってきたようだった。

雑司が谷の邸宅を世話する人が現れて話がとんとん拍子で本決まりになり、堂々たる治療院ができあがった。門前市をなす、とよく言うが全くその通りで、毎日百人を越す患者を診療するのは大変な事であったと思われた。あの当時で1回の施灸代が金五円、われわれの治療代は六十銭くらいでしたが、それでもあまりに毎日混むので特診日というのを設けて、その日は1日20人を限って診療するようにした。政界・財界のそうそうたる人々がみえた。この頃には中山忠直氏も玄関子のような形で入り込み、中川・堀越・代田(文誌)先生たちが門下生として助手を務めておられた。

「今は昔」『経絡治療』第9号、33-34ページより引用。

沢田健先生は、1877年(明治10年)に大阪の剣道指南の家に生まれ、京都の武徳殿で柔術を修行し、朝鮮に渡って釜山で針灸治療所を経営していました。1922年(大正11年)に45歳で城一格(じょう・いっかく)氏の招きで日本に帰国し、鹿児島県で灸の免許を取得します。

東京で開業し、1923年の関東大震災でいったん全てを失いますが、雑司が谷で開業します。そして、1927年(昭和2年)の中山忠直「漢方医学の新研究」で50歳で有名人となりました。

この1927年に代田文誌(しろた・ぶんし)先生が弟子入りしています。1927年から沢田健先生が亡くなる1938年までの治療の様子は、名著『鍼灸真髄』に書かれています。『鍼灸真髄』は何度、読んでも発見がある日本鍼灸の最高の文献だと思います。

代田文誌著『鍼灸真髄―沢田流聞書』 医道の日本社、1941年

実は、沢田健先生は「竹内文書」の竹内巨麿(たけうち・きよまろ)の天津教や「日本ユダヤ同祖説」の酒井勝軍(さかい・かつとき)、右翼の大物、頭山満(とうやま・みつる)や東洋哲学者の安岡正篤(やすおか・まさひろ)と深い関係にあり、1936年(昭和11年)に「天津教(あまつきょう)事件」に関わって、特高警察に思想犯として不敬罪で逮捕されています(※4)。

1936年(昭和11年)は2.26事件の年です。この2.26事件の黒幕と言われた真崎甚三郎(まさき・じんざぶろう)陸軍大将も沢田健先生の患者でした。

1936年(昭和11年)に沢田健先生は不敬罪で逮捕され、不起訴となったものの、失意から1937年(昭和12年)にはがんを発病し、1938年(昭和13年)には62歳で亡くなられました。

『経絡の研究』の丸山昌郎先生は沢田健先生の治療で結核が治ったことが鍼灸の道に入るきっかけでしたし、昭和の名灸師・深谷伊三郎先生もこの時期に雑司が谷で治療院を開かれて、患者を通じて沢田健先生の治療を学んだそうです。

【代田文誌(しろた・ぶんし)先生の時代】

1941年(昭和16年)には、代田文誌先生の『鍼灸真髄―沢田流聞書』 が出版されます。代田文誌先生は1900年長野県出身で二十歳の頃、結核で喀血し、仏門に入りました。

1926年(大正15年)に精神に変調をきたした父親を独習した按摩で治したのをきっかけに鍼灸免許を取得し、1927年(昭和2年)に沢田流に入門します。

1929年から東京帝国大学で研修生として解剖を学び、1931年からは日本赤十字長野支部病院に研修生として学びながら沢田健先生のもとに通いました。

1938年(昭和13年)に沢田健先生が亡くなります。1938年(昭和13年)の38歳から1945年(昭和20年)の45歳の終戦まで代田文誌先生は茨城県東茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の衛生課顧問として灸療所を開設し、そこで働きました。

1942年には代田文誌著『灸療雑話』を出版しています。これは良い本です。

1947年にGHQが鍼灸廃止命令を出しますが石川日出鶴丸先生の活躍で撤回されます。この時期に代田文誌先生は石川日出鶴丸先生と相談して洞刺を開発します。また、1947年に名著『鍼灸治療基礎学』を出版しています。

1948年からは石川太刀雄門下となり内臓体壁反射を学びます。1949年からは東京・小石川で開業し、皮電計の研究をはじめます。

1952年からは、石川太刀雄門下の代田文誌・米山博久による経絡否定論が、経絡治療派の柳谷素霊・竹山晋一郎らと『医道の日本』誌上で「経絡論争」となります。この時期の代田文誌先生は「代田のコペ転(コペルニクス的転回・転向)」といわれていました。古典派の沢田流から科学派に転向して寝返ったと思われていたからです。

1960年には「日本鍼灸皮電研究会(日本臨床鍼灸懇話会)」を石川太刀雄門下の代田文誌・米山博久でつくります。

1974年に、74歳で亡くなりました。

代田文誌(しろた・ぶんし)先生の業績の代表のひとつは、頸動脈洞の洞刺に代表される「動脈刺鍼」です。1974年の最晩年に論文を書かれています。

「動脈刺針の研究」
代田 文誌『日本鍼灸治療学会誌』
Vol. 23 (1974) No. 1 P 20-23

経渠への橈骨動脈刺鍼。
神門への尺骨動脈刺鍼。
気衝への大腿動脈刺鍼。
太溪への後脛骨動脈刺鍼。
太衝への足背動脈刺鍼などです。
適応症はレイノー病などです。

【代田文彦(しろた・ふみひこ)先生の時代】
代田文誌先生の茨城県の満蒙開拓団時代の1939年に長男の代田文彦先生(1939-2003)が誕生しました。代田文彦先生は信州大学医学部を卒業して医師になり、1969年から日産玉川病院で臨床に従事しました。1971年日産玉川病院において32歳で初期の鍼麻酔手術を行っています(※5)。

1977年より、日産玉川病院・東洋医学研修センターで医師・鍼灸師によるカンファレンスをはじめて、多くの鍼灸師を育てました。

1992年には東京女子医科大学東洋医学研究所教授となります。

1996年には名著『鍼灸不適応疾患の鑑別と対策ー66症例に学ぶ』を出版されます。

1999年には名著『鍼灸臨床生情報(1)』を出版されました。

2000年には日本東洋医学会会長となりました。

2002年に『鍼灸臨床生情報(2)』を出版し、2003年に64歳で亡くなられました。

代田文彦先生の名著『鍼灸不適応疾患の鑑別と対策ー66症例に学ぶ』は「卒後、最初に研究すべき文献」として毎年、推薦しています。

また、『鍼灸臨床生情報(1)』と『鍼灸臨床生情報(2)』は、わたしのかつての経絡経穴概論の講義のネタ本でした。代田文誌先生の『鍼灸真髄』はオールタイム・ベストですし、『灸療雑話』も素晴らしいです。

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※1:和田 啓十郎『医界之鉄椎』
http://www.amazon.co.jp/dp/4861291216
※2:「『医界之鉄椎』から一世紀たって」
寺澤 捷年『日本東洋医学雑誌』
Vol. 63 (2012) No. 2 第63巻 第2号 2012年 p. 89-97
https://www.jstage.jst.go.jp/article/kampomed/…/2/63_89/_pdf
※3:「蔵書からみた大塚敬節の学問と人」
町 泉寿郎et al.『日本東洋医学雑誌』
Vol. 54 (2003) No. 4 P 749-762
https://www.jstage.jst.go.jp/…/kampomed1…/54/4/54_4_749/_pdf
※4:「ドキュメンタリー近代鍼灸史3」
油井富雄『東洋医学鍼灸ジャーナル』vol.3.2008 JULY 83ページ
※5:代田 文彦, 光藤 英彦, 五十嵐 宏「針通電麻酔について」
『日本東洋醫學會誌』Vol. 23 (1972) No. 2 P 75-82
https://www.jstage.jst.go.jp/…/kampomed19…/23/2/23_2_75/_pdf
※6:「代田文彦東京女子医大教授が教示された鍼灸臨床の真価」
山田 勝弘『全日本鍼灸学会雑誌』Vol. 56 (2006) No. 5 P 713-726
https://www.jstage.jst.go.jp/arti…/jjsam1981/…/56_5_713/_pdf
http://gjzyzyzz.yiigle.com/CN115398201801/1019330.jhtml

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