柳谷素霊の『秘法一本鍼伝書』と杉山流手技の屋漏術

木戸正雄先生の『素霊の一本鍼 「柳谷秘法一本鍼伝書」を現代臨床に活かす』

柳谷素霊と言えば一般的には古典派、経絡治療派の総帥であり、「古典に還れ」といった古典派の代表のように思われます。

ところが、代表作『秘法一本鍼伝書』を読むと全く違います。

上歯痛の場合は、頬骨弓の上際から頬骨弓の下をくぐるように刺します。足少陽胆経の上関(客主人GB3)穴なのですが、歯の知覚を支配する三叉神経の上顎神経を目標にした刺法です。

下歯痛に対しては、足陽明胃経の頬車(ST6)から下歯槽神経を狙って刺鍼します。これは大久保適斎の『鍼治新書』手術篇(1894年)に掲載されている神経を狙った刺鍼法です。

柳谷素霊は五十肩の治療を得意としており、五十肩の患者と聞くと大喜びしたそうですが、肩ぐう(LI15)穴から肩りょう(TE14)に向けて透鍼したり、かなり太い鍼で深刺しています。ほとんどが神経や筋肉に基づく刺法です。極泉(HT1)から深刺したり、巨骨(LI16)から深刺します。私は2年ほど前の研究会で実技付きで解説しました。

柳谷素霊先生は、1931年頃から1945年までの14年間、24歳から38歳まで小林北州が主宰した帝国鍼灸医学会という組織の理事となります。

帝国鍼灸医学会は『帝国鍼灸医報』という鍼灸雑誌を出版していました。『帝国鍼灸医報』の現物は、北海道大学・金沢大学・慶応義塾大学、東洋鍼灸専門学校の図書館にわずかに残っています。また、国立国会図書館にも残っています。

そして、1940年に小林北洲が編集した『鍼灸諸名家秘傳公開集 龍之巻』(帝國鍼灸醫報社1940)という文献を見ると、「吉田弘道氏の杉山眞傳流」などの項目が見られます。

実は、帝国鍼灸医学会は、全国各地の鍼灸家たちがお互いに秘伝を公開する会でした。24歳から38歳の若き日の柳谷素霊先生は、これらの日本各地の鍼灸師たちの秘伝を吸収したようです。

『柳谷秘法一本鍼伝書』の刺法は郡山七二先生の現代医学的刺法と驚くほど似ています。
また、柳谷素霊先生は杉山真伝流の吉田弘道先生から杉山流手技を習いました。これは、1959年に柳谷素霊先生が書いた『鍼灸の科学 実技編』という文献に「杉山真伝流手技」として掲載されました。これが、後に東洋療法学校協会の『はりきゅう理論』の教科書に「杉山流十七手技」として転載されることになります。
『鍼灸の科学 実技編』の36ページには屋漏術の1法・2法などが掲載され、屋漏術第2法は「故・吉田弘道氏の方法である」と明記されています。

実は、杉山真伝流の継承者である吉田弘道氏は杉山真伝流を継承した後、臨床では「屋漏術第1法」をやっていました。

これは3つの深さに分けて単刺するやり方であり、吉田弘道著『孔穴適用鍼灸萃要』という盲学校のテキストとして出版しました。この内容は国会図書館デジタルライブラリーで確認できます。

ところが、吉田弘道氏は1914年に『杉山真伝流』のガリ版刷りを出版する際に「屋漏術第2法」が正しい屋漏術と気づきます。そして、1935年頃に、柳谷素霊先生はお金を払って吉田弘道先生に杉山真伝流の手技を教わっていたそうです。

そこで柳谷素霊先生が吉田弘道先生に教わったのは3つの深さに分けて捻鍼と雀啄をするという「屋漏術第2法」でした。

そのような経緯で1959年に柳谷素霊先生が書いた『鍼灸の科学 実技編』には、「屋漏術第1法」と「屋漏術第2法」が掲載されているのですが、この本には、屋漏術が2つになった歴史的経緯が全くかかれていないのです。

以下、引用。

それがそのまま昭和34年の『鍼灸の科学 実技編』に載っているのです。しかし、教科書を編纂するときには、吉田弘道とか個人名は省こうということで省いて、わけのわからない説明はみんな省いてしまって、形だけ教科書に残っている。それが今われわれが勉強している杉山流十七手技です。だから、非常に薄っぺらで、何をやったらいいのかが分からなくて、先生方もどうやって教えたらいいのか分からない。
※『柳谷素霊に還れ(※2)』71ページからの引用

このような伝統の失伝というのは深刻だと思います。

杉山神社は明治4年に廃絶されたのですが、杉山流の鍼治所で学んだ吉田弘道先生は河合貞升先生とともに1885年に杉山神社を再興します。1902年に杉山報恩講を馬場美静先生などとともに結びます。2003年に発見された『杉山真伝流』の文献は馬場美静先生所蔵だったものです。杉山神社は1923年の関東大震災で灰燼と化すのですが、1926年に再度、杉山神社を再興しました。

1913年に文部省が「経穴調査会」を組織し、富士川游、三宅秀、吉田弘道が委員となります。

1918年に『経穴調査委員会報告書』では吉田弘道先生が屍体に鍼をして孔穴の解剖を定めたとしています。これが、『改正孔穴』と呼ばれました。

1929年に、杉山報恩講は 富士川游、三宅秀を設立者として「財団法人杉山検校遺徳顕彰会」と改組されますが、これは「経穴調査委員会」がきっかけと思われます。

官報. 1918年12月19日 經穴調査委員報告(文部省) / p453

この1918年12月19日の『官報』の453ページに全文が掲載されています。日本最初の経穴の標準化『改正孔穴』に吉田弘道先生は関わっていました。経絡経穴の近代化・標準化の過程を研究する上では、避けては通れない文献になります。

経絡・経穴の標準化について、日本では1965年に第1次経穴調査委員会が結成され、 1987年 に『経穴集成 : 経穴部位の文献抜粹』 、1989年に『標準経穴学』医歯薬出版 を出版しています。

この1989年『標準経穴学』は素晴らしい出来だと思います。東洋療法学校協会が1992年3月に初版を出版した『経絡経穴概論』(医道の日本社)よりものすごく良いです。1987年出版の『経穴集成』は2009年に復刻出版されています。

2004年に第2次経穴調査委員会が組織され、2008年にWHOから『西太平洋地域でのWHO鍼の経穴標準化(‘Who Standard Acupuncture Point Locations in the Western Pacific Region)』が出版されました。

2009年3月に医道の日本社から『新版 経絡経穴概論』が出版されました。

2009年6月には医歯薬出版から『詳解・経穴部位完全ガイド古典からWHO標準へ』が出版されます。

現代は屋漏術が代表的ですが、経穴の部位にしてもいちばん肝腎の部分が抜けてしまっているので応用ができない現状となっていると感じます。

中森晶三さんという能楽師がいらっしゃいます。中森さん曰く、能楽の世界には「釘を抜いた教え方」があります。能楽の世界では、殿様に教えるときは「釘を入れて」教えます。そうすると、凄いスピードで上達します。殿様相手には、かばん持ちを3年やらせてという教え方はできませんし、殿様はすぐに飽きてしまいます。パトロンの殿様に飽きられてはいけないので、超スピードで上達させて、観賞して面白さがわかるレベルまで持っていきます。

ところが、外から来たお弟子さんは30年とか40年たっても、なかなか上手くなりません。その一方で、能楽師の宗家の家に生まれた子どもは10代で一流の域に達して、20代で名実ともに第一人者となります。これは才能ではなくて、宗家の家の子どもに教えるときだけは、子どもの頃から「釘を入れて」教えているからだそうです。

外から来たお弟子さんには「釘を抜いて教える」から、いつまで経っても一流に達しません。そういう本当の部分を書かれていたのが中森晶三さんでした。

中森晶三さんは型破りの能楽師で、口伝の部分もテープレコーダーで記録して伝え、本当に「釘を入れて」教える数少ない方だったようです。

鍼灸の世界は能楽と違って、悪意なくナチュラルに「失伝」しているのだと思います。

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※1:「柳谷素霊先生の業績」
伊藤 瑞凰, 西田 勇三郎, 中村 万喜男, 富田 道夫
『日本鍼灸治療学会誌』Vol. 27 (1978-1979) No. 1 P 291-298
https://www.jstage.jst.go.jp/arti…/jjsam1955/…/27_1_291/_pdf
※2:大浦慈観「晩年の経穴見直し作業に驚く」
『柳谷素霊に還れ』71ページ、2009年7月、医道の日本社
※3:「経絡の証明と臨床」
岡部 素道『日本鍼灸治療学会誌』
Vol. 14 (1964-1965) No. 1 P 9-20
https://www.jstage.jst.go.jp/article/jjsam1955/…/14_1_9/_pdf
http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000010436522-00

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