承淡安先生の日本滞在記録の論文

2012年『中国針灸』発表
「承淡安が日本に遊学した経緯」
承淡安游学日本经过
夏有兵 张建斌 周俊兵 葛善为 
《中国针灸》 2012年01期

この論文にも書かれているように、1822年に清政府は太医院での針灸を永久に廃止し、中国針灸は凋落の一途でした。1840-1842年のアヘン戦争もあり、中国は自分の文明に自身を失いつつある時期です。

澤田健先生が1924年の関東大震災直後から浅草で診療をはじめ、柳谷素霊先生は1931年から小林北州の帝国針灸医学会の理事をしていました。

中国針灸の承淡安先生は1934年10月29日に福建省から旅立ち、長崎に着き、11月6日から東京にやってきました。1935年1月から5月まで東京高等針灸学院(現在の呉竹)で学び、坂本貢校長は雅叙園で宴会を催し、壮行会を行いました。

中国に帰国して、承淡安先生は現在の中国針灸を形成していきます。2010年代になってから承淡安先生にはじまる「澄江针灸学派」に関する論文が大量に発表されており、追いきれていないです。

澄江针灸学派的形成与学术特点
《江苏中医药》 2017年05期 

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