鬱証と積聚としての腎積、奔豚

寺澤捷年先生の『症例から学ぶ和漢診療学 第2版』の30ページに、交通事故で前の車に追突した加害者の女性が、恐・驚から奔豚気となった症例が分析されています。

驚きや恐怖から奔豚となる症例は多いです。恐怖や驚の七情が腎に影響し、腎は納気を主りますが、腎気の欝滞・上逆(腎の積聚)から奔豚となると分析しています。奇経八脈の衝脈病「逆気して裏急」だと思います。

しかし、中国伝統医学の古典の病である奔豚は現代中医学ではほとんど分析されていません。
現代中医学の肝鬱中心の鬱証理論は、更年期女性や月経前症候群の女性のイライラ・易怒・憂うつ感を上手く説明できる優れた理論ですが、恐怖や驚きによるPTSDやパニック症、不安症をうまく説明できませんし、怒・思・悲・憂・恐・驚の七情や、五臓が蔵している魂・神・意・魄・志の五神の理論と整合性が低いと感じます。

風邪をひいた後にプチうつになる患者さんは多いですが、イライラや易怒や胸脇苦満はなくて、だるくてヤル気(気魄)が出ないだけです。

犯罪の被害者になったり、交通事故にあってパニック障害や不安障害になる人は、イライラや易怒を訴える方もおられますが、むしろ不眠・不安・動悸や憂うつのほうが多いです。また、交通事故で、前の車に追突した瞬間に腎が虚すことは論理的にあり得ないと思います。慢性病による腎精の消耗の腎虚ではなく、腎気がうまく機能しなくなっているだけだと分析しています。つまり、鬱証の腎鬱・恐鬱・驚鬱といえる病態ですが、古人は 積聚の一種 、「腎積」「奔豚」として表現しています。

『難経』には肝の積「肥気」、心の積「伏梁」、脾の積「痞気」、肺の積「息賁」、腎の積「奔豚」の五積があります。

「五十六难曰:肾之积名曰贲豚」
http://zhongyibaodian.com/archives/203.html

奔豚は腎と七情の驚・恐と関連しています。『金匱要略』では「奔豚は驚恐で起こる」と論じています。

师曰。病有奔豚。有吐脓。有惊怖。有火邪。此四部病。 皆从惊发得之。师曰。奔豚病。从少腹起。上冲咽喉。发作欲死复还止。皆从惊恐得之。
『金匱要略』奔豚气病脉证治第八
http://www.pharmnet.com.cn/tcm/knowledge/detail/103309.html

少腹よりおこって咽喉に上衝して発作すると死にそうになるのは、パニック障害みたいな感じです。奔豚気からの梅核気は多いです。

奔豚は『霊枢』邪気臓腑病形篇に初出しています。

腎脈が急すること甚だしきは骨癲疾(=霊枢・癲狂篇の病)であり、微急なるは沈厥(=めまい)、奔豚となる。
『黄帝内经灵枢・邪气藏府病形』
http://www.zysj.com.cn/lilunshu…/huangdilingshu/101-3-4.html

個人的には、奔豚には鍼灸が一番効果的だと感じています。中国伝統医学古典では『鍼灸甲乙経』や『千金翼方』『外台秘要方』などの昔から奔豚の針灸治療が記述されています。

1999年「奔豚気の鍼灸治療56例」
针灸治疗奔豚气56例
白明光 孙恩业 魏国华
《中国针灸》 1999年01期
http://www.cnki.com.cn/Article/CJFDTOTAL-ZGZE901.033.htm

中国でも山西中医医院鍼灸科の主任医師、趙立新先生は督脈・任脈への鍼灸を奔豚に用いているそうです。関西中医鍼灸研究会の先生かと思いました。

「趙立新による任脈督脈の二脈に鍼しての交通任督による奔豚の治療の実例」
赵立新运用交通任督二脉针法治疗奔豚验案举隅
孟晓敏 郝娟娟 薛亚妮 张瑞萍 赵立新
《山西中医》 2018年04期
http://www.cnki.com.cn/Article/CJFDTOTAL-SHIX201804016.htm

隋代、巣元方著、『諸病源候論』では、七情の驚・恐以外に「憂」や「思」でも生じることが論じられています。

【六、贲豚气候】夫贲豚气者,肾之积气。起于惊恐、忧思所生。 若惊恐,则伤神,心藏神也。忧思则伤志,肾藏志也。
神志伤动,气积于肾,而气下上游走,如豚之奔,故曰贲豚。
《诸病源候论》气病诸候  六、贲豚气候
http://zhongyibaodian.com/zhubingyuanhoulun/623-17-1.html

「中医学」成立以前の中国伝統医学古典をベースに、怒・思・悲・憂・恐・驚の七情や五臓が蔵している魂・神・意・魄・志の五神の理論を使い、現代日本の鍼灸臨床に適応した鬱証理論を研究する必要性を感じます。

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