ヨーロッパ最初の舌診専門書、元代の『敖氏傷寒金鏡録』

2020年1月4日発表
「(ポーランドの)ボイムの『舌の色や徴候によって引き起こされる病気のインデックス』はヨーロッパで最初に出版された舌診専門書 その中国語テキストと版の同定とヨーロッパ医学に与えたインパクト」
Boym’s “De Indiciis Morborum ex Linguae Coloribus et Affectionibus”: The Earliest Chinese Tongue Diagnosis Manual Published in Europe, Identification of Original Chinese Text, Peculiarities of Printed Edition and Its Impact on European Medicine.
Ioannis S et al.
Chin J Integr Med. 2020 Jan 4. doi: 10.1007/s11655-019-3227-z.
https://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/31903533
https://link.springer.com/article/10.1007/s11655-019-3227-z

中国伝統医学の歴史上、最初の舌診専門書であるモンゴル帝国時代、杜清碧著、『敖氏傷寒金鏡録』がなんとポーランドのマルコポーロと呼ばれるポーランドのイエスズ会士、ミハウ・ボイムによって1650年代にヨーロッパに伝わっていたという論文です。

ミハウ・ボイムはポーランドからポルトガルのリスボンを経由して中国に行き、『黄帝内経』『難経』『脈経』をヨーロッパに翻訳しました。さらに1656年に『中国植物志』を出版しています。

日本においては、元代の『敖氏傷寒金鏡録』(1341年)の舌診は明末に中国から日本に亡命していた戴曼公が伝えています。

『戴曼公唇舌図訣』
http://ci.nii.ac.jp/naid/10021253274

『傷寒金鏡』
https://archive.wul.waseda.ac.jp/…/ya09_00227/ya09_00227.pdf
(全文がPDFファイルでカラーでみれます)

モンゴル帝国の最初の舌診の書 『敖氏傷寒金鏡録』(1341年)の舌診は、現代中医学の舌診とまったく異なります。例えば、白苔は半表半裏証で小柴胡湯証です。

「舌が白苔で滑苔なのは邪気が裏に入り、丹田に熱があり、胸中に寒があるからである。すなわち少陽半表半裏証であり、小柴胡湯を用いるのが宜しい」
舌见白苔滑者.邪初入里也.丹田有热.胸中有寒.乃少阳半表半里之证也.宜用小柴胡汤、栀子豉汤治之.
《敖氏伤寒金镜录》第一·白苔舌
http://www.zysj.com.cn/…/aoshishanghanjinjinglu5…/index.html
(↑全文が読めます)

舌診の歴史を調べると、「舌尖主心、舌中主脾胃、舌辺主肝胆、舌根主腎」という五臓配当ができたのは、明代、王肯堂著『証治准縄』の1608年です。

淡紅舌が健康人の舌であるという認識ができたのも、清代の『舌胎統志』が出版された1874年です。

現代中医学の舌診ができたのは、中華民国、曹炳章の『彩図 弁舌指南』が出版された1920年になります。だから『鍼灸大成』などの鍼灸古典には一切、舌診はでてこないのです。

中医学古典の研究をしていると、一つのターニングポイントはモンゴル時代・金元時代です。
モンゴル時代を代表する窦漢卿(とうかんけい)先生は金末・元初の鍼灸家で、フビライ・カーンの皇子の教育係として重用されました。モンゴル帝国=元朝の重臣で大知識人です。

易水派を代表する羅天益も、漢方は李東垣を師匠として、鍼は窦漢卿に学んだようです。羅天益は東垣鍼法を残しています(『鍼灸聚英』)。

『扁鵲神応鍼灸玉龍経(へんじゃくしんのうぎょくりゅうきょう)』を書いた王国瑞の父親である王開(王好古)は窦漢卿の弟子でした。窦漢卿は隠者である宋子華に奇経八脈交会穴を学びました。また、山東省の名医、李浩に鍼を学び、さらに道教・全真教の丘長生に学んだという伝承もあります。

このモンゴル時代から鍼灸は明らかに変化しました。漢方も金元四大家の医学革命があった時代です。

モンゴル帝国時代にすべての中国文化が変容しました。それまで四書五経と史書の中国文化圏世界だったのが、完全に世界史に変容します。モンゴル帝国時代は道教の全真教も絶頂期となります。金代の全真教の開祖、王重陽と弟子の馬丹陽、丘処機が重要で、馬丹陽は『鍼灸大成』の『馬丹陽天星十二穴歌』に名前が残っています。

『馬丹陽天星十二穴歌』「足三里、内庭、曲池、合谷接、委中配承山、太衝、崑崙穴、環跳、陽陵泉。通里並列欠」

道教の丘処機(きゅうしょき)はモンゴル帝国のチンギス=カーンと養生問答をして保護を得ました。チンギス=カーンに不老長寿についてきかれて『衛生の道はあるも、長生の薬はありません』と答えたからです。丘処機の流派が北宗、全真教・龍門派であり、弟子の伍守陽と柳華陽を生みました。 この丘処機の弟子と言われているのが元末から明初の張三豊で、伝説では張三豊が武当山で太極拳を創ったとされ、武当山には今でも武当山道教があります。

道教では「精・気・神」が三宝と呼ばれ、修行は「錬精化気・練気化神・練神還虚」のプロセスをたどります。最初の練精化気が小周天という督脈と任脈を通じさせるプロセスで、練気化神は大周天と呼ばれます。 この道教の内丹術の「精・気・神」が中国伝統医学に入りました。

2代目モンゴル帝国皇帝、オゴデイ=カーン(太宗)の時代に実力者バトゥの西征があり、ロシア・ハンガリー・ポーランドまでモンゴル帝国は侵略します。3代目モンゴル帝国皇帝、グユク=カーン(定宗)の時代にローマ教皇の使者プラノ=カルピニがモンゴルに来ます。4代目モンゴル帝国皇帝、モンケ=カーン(憲宗)の時代にイスラム・アッバース朝を滅ぼし、クビライに命じて南宋を攻撃します。

このモンケ=カーンの時代に仏教・イスラム教・キリスト教の間で宗教論争がありました。モンケ=カーンは最初、ネストリウス派キリスト教徒でしたが、チベット仏教に改宗した経緯があります。モンケ=カーンはモンゴル帝国の首都、カラコルムのネストリウス派キリスト教の教会で仏教徒・イスラム教徒・キリスト教徒を平和のうちに議論をさせました。これはモンケ=カーンが賢君主であったのとモンゴル帝国の寛容さを示しています。さらにモンケ=カーンの時代には、仏教と道教の間で宗教論争がありました。 

モンケ=カーンが亡くなってから、1260年にクビライ=カーンが5代目モンゴル帝国皇帝となり、大元大蒙古国を建てます。5代目モンゴル帝国皇帝、クビライ=カーンの帝師、パスパ(八思巴)はチベット人であり、1261年にチベット仏教世界と中国仏教世界を統治することが認められました。1269年にはパスパ文字も創っています。韓国のハングル文字は、このパスパ文字を基にしたという学説があります。1258年に朝鮮半島の高麗はモンゴルに服属し、1274年と1281年には元寇に参加します。

このパスパ文字を書いた石碑、少林寺聖旨碑が1987年、中国・崇山少林寺から発見され、中国史の理解を激変させました。チベット仏教僧パスパが少林寺をはじめとする中国仏教界を支配し、崇山少林寺が中国仏教界のトップだったことも判明しました。 

モンゴル帝国、イル=ハン国のガザン=ハンはチベット仏教からイスラム教に改宗し、バクダードのユダヤ医師で首相だったラシードゥッディーンに『集史』の編纂を命じました。『集史』はモンゴルだけでなく、キリスト教国や中国やイスラム諸国の歴史も網羅されています。

ユダヤ医師のラシードゥッディーンは『キタイ(中国)の学知と技芸に関するイルハン国の珍しい宝の書』というトルコのイスタンブールに現存する文献を1313年に書きました。現代ロシア語で“китай(キタイ)”は「中国」の意味ですが、これは遼(りょう=キタイ)王朝を創った契丹が語源だそうです。

ラシードゥッディーンの書いた『宝の書』の内容は、王叔和の『脈経』を覚えやすくするために南宋代に崔嘉彦が書いた歌訣『脈訣』のペルシャ語訳です。 ラシードゥッディーンは鍼灸の『銅人しゅ穴鍼灸図経』もペルシャ語に翻訳しています。

「ペルシア語訳『王叔和脈訣』の中国語原本について」
羽田 亨一
『アジア・アフリカ言語文化研究』 48-49, 719-726, 1995
https://ci.nii.ac.jp/naid/110004463840

脈診はモンゴル帝国のラシードゥッディーンによって1313年にペルシャ語に翻訳されて、トルコに現存しています。また、ロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクトペテルブルク支部には、満州語訳された『王叔和脈訣』が収蔵されています。中国伝統医学の脈診はユーラシア大陸の端のロシア・サンクトペテルブルクまで伝わっていました。

「満洲語医学文献雑考」
渡辺純成『満族史研究』 6 96-122 2007年12月
https://iss.ndl.go.jp/books/R000000004-I9513463-00?
(オープンアクセスPDFファイルあり)

舌診はモンゴル帝国時代の1341年に最初の舌診専門書 『敖氏傷寒金鏡録』が書かれて、ポーランドの ミハウ・ボイムによって1650年代にヨーロッパに伝わったのです。中国伝統医学の脈診と舌診の歴史はものすごい空間的な拡がりがあります。

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