ブラックパンサーとHIPHOPの2パックとニューヨークの ブラック・アキュパンクチャー

 
2020年11月9日
「いかにして鍼はニューヨーク市ブロンクス地域で最先端の治療となったのか」
「黒人有色人種アクティビストたちはリンカーン・デトックスをつくり、東洋医学をひろめることを助けた」
 
 
私の世代のHIPHOPレジェンドである2パックの義父で鍼師だったミューチュル・シャクールさんの物語です。2パックやスヌープ・ドッグ、N.W.A.のアイスキューブなどギャングスタ・ラップの時代は最近、映画になっています。ラッパーの2パックの父は黒人解放運動ブラックパンサー党の活動家で鍼師でした。
 
 
以下、引用。
 
鍼がアメリカで広く行われる治療になったのは、50年前のニューヨーク、サウスブロンクスの黒人有色人種アクティビストたちの貢献によるものだ。
1970年にリンカーン・デトックスは若き活動家のミューチュル・ シャクールを政治教育のディレクターとして雇った。シャクールは1973年の『ニューヨークタイムズ』で、香港の医師たちが鍼で薬物中毒を治療したことを読んだ。シャクールは毛沢東主義者の中国で標準的で、安価で、草の根レベルで医療を提供していたはだしの医者に刺激を受けた。
 
シャクールと仲間たちはケベック州とカルフォルニア州で1976年に鍼のトレーニングを受け、シャクールはカルフォルニア州で鍼のライセンスを取得した。
 
シャクールはニューヨーク州に戻り、リンカーン・デトックス鍼トレーニング・プログラムを設立した。これはアメリカにおける最初のものである。
 
リンカーン病院から追放された後、ピープルズ・プログラムはイースト140ストリートに移設され、そこで5つのツボを使うNADAプロトコルに発展した。
 
シャクールは北アメリカ黒人鍼アドバイザリー・アソシエーションを設立して患者を治療し、鍼と政治教育の弟子たちを訓練した。
 
鍼師、シャディディ・キンゼイはベッドフォードステュベサンツPEACEヘルスセンターの創設者であり、1981年にシャクールの弟子として研究した。
 
 
 
 
ミューチュル・シャクール先生の弟子、シャディディ・ベアトリス・チェイス・キンゼイ先生はアメリカのブラック・アキュパンクチャーの歴史そのものであり、今もニューヨークで安価に鍼を提供し続けています。この女性はめちゃくちゃに格好いいです。ニューヨークのハーレムの 北米黒人鍼協会で1981年に ミューチュル・シャクール先生に鍼を学びました。北米黒人鍼協会はアメリカ連邦捜査局FBIのカウンターインテリジェンス諜報部と闘争の末に潰されます。
 
1984年、キンゼイ先生はニューヨークの東洋医学鍼学校に入学し、1989年にNCCAOМ(National Commission for Certification of Acupuncturist and Oriental Medicine)に認証されました。
 
1990年にPEACEヘルス・センターを創り、ずっとHIV/AIDS患者とアルコール中毒、薬物中毒患者の鍼治療をおこなってきました。ニューヨークのスラム、サウスブロンクスから ブラック・アキュパンクチャーの歴史は始まり、ハーレム・ブルックリンで地域コミュニティを開発し、黒人女性の権利を守り、女性やシングルマザーをエンパワーメントし、自己決定のために奮闘してきました。世界の片隅で誰にも知られることなく、人生を仲間を助けるために捧げてきたのです。ブラック・アキュパンクチャーを知ることができて本当に良かったです。
 
 

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