漢方の現代史

 
2021年9月
「日本伝統医学(漢方)の臨床研究:現代科学方法論によるエビデンスの必要性」
Clinical studies of traditional Japanese herbal medicines (Kampo): Need for evidence by the modern scientific methodology
Ichiro Arai
Integrative Medicine Research
Volume 10, Issue 3, September 2021, 100722
(全文オープンアクセス)
 
 
以下、引用。
 
医師が処方する漢方製剤は国民健康保険カバーされている。これらの多くは、最新の剤形の乾燥抽出物顆粒であり、アルミニウムのパッケージで単回投与されるため、医師たちは、それを伝統医薬という事実を意識せずに一般的な薬剤として処方している。
 
ランダム化比較試験で使用された漢方処方の多くは六君子湯と大建中湯であったことが観察されている。
 
1980年代に処方用の漢方エキス製品が普及したことにより、慢性肝炎に使用された小柴胡湯を中心に市場が爆発的に拡大した。1996年までに、小柴胡湯の副作用である間質性肺疾患による死亡が10人あったため、すべての漢方薬の市場は急速に減少した。
 
PubMedの出版物の数が少ないため、ほとんどの臨床研究は日本語で日本のジャーナルに掲載されていた。
 
1990年代初頭までに、小柴胡湯による間質性肺炎による死亡により、小柴胡湯と柴苓湯の売上は劇的に減少した。したがって、製造業者はもはや臨床研究を実施するための十分な資金を持っていなかった。その結果、他の処方箋を含む漢方薬の臨床試験の数は、1990年代後半に劇的に減少した。
 
2000年代までに大建中湯が外科術後の腸症状に対して有効であるという症例報告が発表され、これらの結果に基づいて大建中湯の臨床研究が開始された。さらに、これらの結果に続いて、認知症の行動的および心理的症状に対する抑肝散および機能性消化不良に対する六君子湯の臨床効果が発見され、大量の臨床研究が行われた。この間、『漢方製品の多施設二重盲検比較試験の推進とその効果を裏付ける基礎研究』が漢方医薬品のトップメーカーの株主を対象とした中期目標として掲げられた。
 
 
 
外科手術後のイレウスへの大建中湯、認知症への抑肝散、機能性胃腸症(FD)への六君子湯は、まさに2000年から2017年の漢方研究のトレンドでした。
 
 
以下、引用。
 
1990年代の根拠に基づく医療(EBM)の時代とともに、日本の漢方研究者の間でさえ漢方薬の証拠に関する意識が高まった。日本最大の漢方医学専門機関である日本東洋医学会は、2001年に根拠に基づく医療の特別委員会を設立し、漢方医学の証拠の収集を開始した。
 
新井一郎先生の2015年論文「日本の漢方製剤産業の歴史」は必読文献です。
 
 
「日本の漢方製剤産業の歴史」
新井 一郎『薬史学雑誌』2015 年 50 巻 1 号 p. 1-6
(全文オープンアクセス)
 
 
以下、引用。
 
医療用漢方製剤市場の 83% はツムラが占め、次いでクラシエが 10%、残りの 7% を数社が分け合っている状況である。一方、一般用漢方製剤市場はクラシエ 30%、小林製薬 11%、ロート製薬 8%、ツムラ5%、その他 46% となっている。これらの数字から計算すると、医療用、一般用をあわせた漢方製剤全体の市場シェアは、ツムラが 79%、クラシエが 12% ということになる。
 
わが国におけるはじめての漢方エキス製剤は、第二次大戦中に最初の作成が試みられたとの報告3)もあるが、実質的には、戦後まもなく、武田薬品工業の渡辺武、後藤実の両氏により作成されたものが最初である。
 
1950 年、京都の細野診療所の細野史郎、坂口弘の両医師は、日本東洋医学会関西地方会有志に対し、この武田薬品工業の技術で作成したエキス製剤を無償で提供し、臨床での効果判定を呼びかけたが、それに応える者はほとんどいなかった。
 
はじめて市販された漢方エキス製剤は、1957 年の小太郎漢方製薬の 31 処方である。これは阪大薬学部の木村康一教授、高橋真太郎助教授の指導の下、桑野重昭助手が小太郎漢方製薬に移り、真空減圧乾燥でエキスを脱水、赤外線乾燥装置で乾燥粉末とする方法で作成したものである。
 
わが国において、サリドマイド事件、アンプル入り風邪薬事件、スモン事件が続けておこり、西洋薬の副作用に対する不安が大きかった時代であった。
 
1976 年は「漢方エキス製剤元年」と呼ばれる年で、小太郎漢方製薬の 21 処方、津村順天堂(現・株式会社ツムラ)の 33 処方が一挙に薬価収載された。この医療用漢方製剤の大量承認は、当時、日本医師会会長であった武見太郎氏の超法規的な力により臨床データなしに承認がなされたとの説が根強い。
 
 
1950年 日本東洋医学会が発足。
1954年 東亜医学協会が『漢方の臨床』を発刊。
1957年 津村順天堂(ツムラ)の協力で、医療法人・金匱会、中将湯ビル診療所ができる。ここで大塚敬節先生や千葉医科大学グループが診療を行う。
小太郎漢方製薬がエキス剤を開発。
1967年 4処方の漢方処方が保険に収載される。
1970年 12月9日に大塚敬節・矢数道明や鍼灸の岡部素道、芹沢勝助が自民党本部に集まり、そこで日本医師会会長の武見太郎が北里大学に東洋医学研究所をつくろうと発案し、日本船舶振興会の後援で北里大学東洋医学研究所ができる。初代所長は大塚敬節先生が就任。
1976年 武見太郎の尽力で大量の漢方処方が保険に収載される。
 
 
1980年代に漢方は売上を伸ばしますが、小柴胡湯事件が起こります。
 
1990年代後半に漢方は売上が激減しました。1991年にゴードン・ガイアットがランダム化比較試験によるEBMを提唱しました。
 
2000年からは大建中湯や抑肝散、六君子湯など、科学的研究を背景にした漢方のランダム化比較試験が激増しました。2001年から2017年は『EBM漢方』の時代になります。
 
 

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