【BOOK】『中国文明の歴史〈4〉分裂の時代―魏晋南北朝』

 
 
森 鹿三
中央公論新社 (2000/5/1)
 

 
 
中国の歴史を読み直していますが、森鹿三先生の1967年に最初に出版された『中国文明の歴史〈4〉分裂の時代―魏晋南北朝』は、「インドから中国に仏教がどのように輸入されたのか」を平易な言葉で総合的に解説された文献で、非常に感動しました。
あまりに名著すぎるので、調べたら、2020年に中国で翻訳が出版されていました。納得です。
 
 
中国文明的历史4:中国文化的开端魏晋南北朝
森鹿三 陈健成 (著)
四川人民出版社 (2020/6/30)
 
 
森鹿三先生には、神農本草経の研究書もあります。
 
『本草学研究』
森鹿三 著
武田科学振興財団杏雨書屋1999.11
 
 
森鹿三先生の『本草学研究』や、渡辺幸三先生の『本草書の研究』(1987)なども、わたしは存在を知りませんでした。
 
森鹿三先生の魏晋南北朝の仏教史は、どんな本よりもわかりやすいです。
 
後漢の支婁迦讖(しろうかせん)の『般若経』、西普の竺法護(じくほうご)による『法華経』『維摩経』の翻訳があります。
 
310年に仏図澄(ぶっとちょう)が洛陽に来ます。
道安は前秦の符堅に連れ去られます。
東普の法顕はインドから『涅槃経』を持ち帰ります。
北魏では寇謙之(こうけんし)が道教を国教化します。
鳩摩羅什(くまらじゅう)が後秦で大量の翻訳を行います。
 
東普では、仏教を普及するために老荘思想が混ざり、清談が流行します。貴族の邸宅が寺院となります。東普から宋代には、『維摩経(ゆいまきょう)』が大流行します。これは、居士(こじ)といって在家である維摩が仏弟子をやりこめる話だから貴族たちにウケが良かったのです。
 
日本の聖徳太子も『三経義疏』の『維摩経義疏』を書いたとされています。
 
東普から六朝の仏教、あるいは北魏の仏教は国家権力との距離に苦慮します。東普の廬山の慧遠は「沙門不敬王者論」を書き、僧は王や皇帝に服属しないと主張しました。しかし、次第に国家権力に取り込まれ、貴族仏教・祈祷仏教となり、それが日本に輸入されることになりました。革命的思想であった朱熹の朱子学が李氏朝鮮や明で権力維持の道具となり、それから日本に輸入されたのと似た関係があります。
 
鳩摩羅什の翻訳した「成実論(じょうじつろん)」も南北朝時代に流行します。これは奈良時代の南都六宗の一つ、成実宗となります。南都六宗の成実宗、三論宗、倶舎宗、華厳宗、法相宗、律宗があります。
 
律宗は鑑真和尚が唐代・奈良時代に日本に伝えました。
 
三論宗は、竜樹(ナーガールジュナ)の『中論』を中心とした学派で、南北朝から隋代の吉蔵(きちぞう)が大成し、吉蔵の弟子が高句麗の慧灌(えかん)であり、625年に来日し、奈良の元興寺に伝わります。飛鳥時代に呉から来日した智蔵が元興寺の慧灌(えかん)に教わり、さらに智蔵は帰国して法隆寺で三論宗を広めました。
 
成実宗は鳩摩羅什が翻訳し、六朝時代の南朝・梁で流行し、日本には天武天皇時代に百済からの僧・道蔵が伝えました。
 
法相宗は、インドの無着や世親が創ったインド瑜伽行唯識学派であり、日本には遣唐使として玄奘三蔵の弟子となった道昭が伝えました。
 
倶舎宗は、世親(せしん:ヴァスバンドウ)の『阿比達磨倶舎論』玄奘三蔵の弟子であった新羅の僧、智通、智達が飛鳥時代の658年に伝え、東大寺・興福寺で研究されました。
 
華厳宗は、唐代の杜順が創始し、二祖の智儼(ちごん)に伝わり、武則天(則天武后)の庇護を得て華厳を完成させた法蔵に伝わり、法蔵に学んだ審祥(しんじょう)が日本に伝え、奈良の東大寺は華厳宗の寺となりました。
 
飛鳥時代や奈良時代の日本の仏教文化を理解するのに、魏晋南北朝の歴史の理解が必要でした。
 
 

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