『東洋医学とは何か 72』

 
 
以下、引用。
 
1822年に、清王朝の道光帝は侍従医が皇帝の息子に対し医療過誤を起こした事に激怒し、「鍼灸の一法、由來已に久し、然れども鍼を以って刺し火もて灸するは、究む所奉君の宜しき所にあらず、太医院鍼灸の一科は、永遠に停止と著す。(鍼灸治療は長い歴史を有するが、針を体に刺す事や艾で体を焼く事は、皇帝に対して好ましい行為ではない。従って太医院(清王朝内の病院)内の鍼灸科は、永遠に閉鎖する)」と言う勅令を出しました。皇帝に禁止された鍼灸治療は民間でも行ってはいけない事となり、それ以降鍼灸治療は衰退の一途を辿り、同時に薬草治療を含めた中国医術が全般的に衰退しました。
 
今の中医学における特徴とされる「弁証論治」です。その方式を構築したのは楊長森です。
 
楊長森は、薬草治療の「理法方薬」の影響を受けて、「理法方術」の鍼灸臨床診断の「弁証思考方式(弁証論治)」を構築した。
 
 
楊長森先生は1928年江蘇省の中医の家系に生まれました。
 
1949年より開業し、1955年より承淡安先生が校長を務める江蘇省中医進修学校で鍼灸の講師として働きます。
 
 
2010年「楊長森教授の現代鍼灸学術の貢献」
杨长森教授对现代针灸学术的贡献
张建斌
《中国针灸》 2010年12期
 
 
楊長森先生の著書の 『针灸学讲义』は2012年に中国で出版されています。
 
 
2012年「楊長森鍼灸学講稿」
杨长森针灸学讲稿
人民卫生出版社:2012-11-01
 
 
楊長森先生は、1950年代に『鍼灸学講義』という教材を作成し、これは1980年代に『鍼灸治療学』という教材となりました。
 
2006年に日本の淺野周先生が『全訳鍼灸治療学 (中医薬大学全国共通教材)』として、たにぐち書店から翻訳出版されています。
 

 
 
楊長森先生は、 1980年代の中医学鍼灸教育のど真ん中にいた先生です。
「弁証論治)」は1950年代に任応秋先生と秦伯未先生が創った新理論です。
 
1955年に任応秋先生が「中医の弁証論治の体系」という論文で、「弁証論治は中医学で臨床上、不可欠な基本的知識である」と提唱しました。
 
 
1955年「中医の弁証論治の体系」
中医的辨证论治的体系
任应秋
《中医杂志》 1955年04期
 
 
1957年に秦伯未先生が「中医学の『弁証論治』概説」を出版します。
 
 
1957年 「中医学の『弁証論治』概説」
中医“辨证论治”概说
秦伯未
《江苏中医药》 1957年01期
 
 
陸痩燕(りくそうえん)先生が、さらに1958年に「鍼灸医学の発展道路」と 「針灸弁証論治における処方から配穴に至る順序の原則」を発表されて、鍼灸弁証論治という方向性がうちだされます。
 
 
1958年「鍼灸医学の発展道路」
针灸医学的发展道路——访问江苏省中医学校观感
陆瘦燕 黄羡明 《江苏中医》 1958年04期
 
 
1958年12月「針灸弁証論治における処方から配穴に至る順序の原則」
从针灸的辨证论治程序谈到处方配穴原则
陆瘦燕 《上海中医药杂志》 1958年12期
 
 

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