アメリカの鍼と太極拳の歴史

 
 
2016年アーサー・イン・ファン著
「ドクター・ギム・シェック・ジュー:アメリカ鍼教育と中医学の父の伝説的人生」
The legendary life of Dr. Gim Shek Ju, the founding father of the education of acupuncture and Chinese medicine in the United States
Arthur Yin Fan
J Integr Med. 2016 May;14(3):159-64.
 
 
アメリカのUCLAの大学院生だったスティーブン・ローゼンブラット先生はDr. Gim Shek Juと1968年に出会い、マーシャル・ホーオとともに太極拳を学びました。
 
マーシャル・ホーオは、1910年にカルフォルニア州オークランドに生まれ、英語の話せないDr. Gim Shek Ju(趙金石)の通訳を務めました。免許鍼師(LAc)でもあり、太極拳という文献を出版しています。
 
 
1986年マーシャル・ホーオ著「太極拳」
Marshall Ho’O
Black Belt Communications Inc (1986/12/1)
 

 
 
スティーブン・ローゼンブラットは、香港の蘇天佑先生を紹介され、UCLA医学部麻酔科で鍼を学びます。
 
しかし、共和党のロナルド・レーガンがカルフォルニア州知事となり、ローゼンブラットらはカルフォルニア州を去って、マサチューセッツ州ボストンに行きます。
 
 
1975年までに蘇天祐のジェームズと、スティーブン・ローゼンブラットのスティーブンをとったジェームズ・スティーブン・アキュパンクチャー・センターが軌道にのってきました。これは、のちのニューイングランド・スクール・オブ・アキュパンクチャーとなります。
 
 
1975年に民主党のジェリー・ブラウンがカルフォルニア州知事となり、スティーブン・ローゼンブラットはカルフォルニア州に戻ります。
 
スティーブン・ローゼンブラットがサンタバーバラで教えたグループは、のちのサンタバーバラ鍼カレッジとなり、サンディエゴで教えたグループはのちの名門、パシフィック大学となります。
 
 
Dr. Gim Shek Ju(趙金石)の曽祖父は、1848年にカルフォルニア州に移民したそうです。
Dr. Gim Shek Ju(趙金石)の父は1900年にアメリカで生まれたジム・ジューです。
 
アメリカにおける中国人排斥の法律の歴史(1882年中国人排斥法)や、日系移民排斥の歴史である1924年排日移民法は、トランプ政権下のアジア人差別の歴史に直接つながっています。
 
これらは、国家や大学などの権威からこぼれた民間の歴史です。
これこそが、鍼灸の歴史だと感じました。鍼灸と権威主義は相反するものなのです。
 
 
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【中国移民・アジア系移民の世界:ブードゥー・ハイチ革命からゴールドラッシュと苦力貿易へ】
 
1776年のアメリカ独立宣言、1789年フランス革命による人権宣言の少し後に、1791年~1804年のハイチ革命がありました。
 
ハイチは、砂糖きびプランテーションの植民地で、アフリカから連れてこられた黒人奴隷が強制労働させられていました。
 
1791年にハイチのブードゥー教僧、ブークマンが奴隷解放を宣言して、ハイチ全土で反乱が起こりました。スペイン軍やフランス軍の介入を打ち破り、1804年にハイチ革命が達成され、アメリカに次いで独立国が生まれました。
 
 
1804年ハイチ革命の影響は多岐に及びます。
1807年にイギリスはアフリカ人奴隷貿易を廃止しました。
スウェーデンでは1846年、フランス領では1848年、オランダ領では1863年に、奴隷制が廃止されていきます。
 
また、ハイチの解放奴隷たちはフランス領だったニューオーリンズに移住し、奴隷解放思想を文化の遅れた国アメリカで普及し影響したため、1861年のアメリカ南北戦争につながっていきます。アメリカのリンカーン大統領の奴隷解放宣言は1862年とかなり遅かったのです。
 
1820年代からはアメリカの解放奴隷たちがアフリカに帰ろうという運動を起こし、1847年にアフリカに「リベリア(自由)」という国を建国します。
アフリカの最初の植民地からの独立国リベリアの首都「モンロビア」は、アメリカの5代大統領ジェームズ・モンローの名前からとられています。
 
 
1807年にイギリスは奴隷貿易を廃止し、1808年からリベリアの隣のシエラレオネにイギリス解放黒人奴隷たちの植民地ができました。
1961年に独立したシエラレオネの首都がフリータウン(自由の町)という名前なのは、解放奴隷たちの町だったからです。
 
 
さらに南米では1808年から奴隷解放運動・独立運動が起こり、英雄シモン・ボリバルによりベネズエラ・コロンビア・ペルーが独立していきます。
 
 
【苦力貿易】
1804年のハイチ革命以降、世界は激変しました。
 
1492年コロンブスのアメリカ到達以来、南米・中南米の砂糖プランテーションの植民地経営は黒人奴隷が主になっていました。その黒人奴隷が次々と解放されていき、中南米や南米の砂糖プランテーションは労働力不足に苦しみました。
 
そんなときに1840年から1842年にアヘン戦争、1856-1860年にアロー戦争が起こります。それまで清国は鎖国していました。
アヘン戦争後に香港の割譲、上海の開港があり、アロー戦争後の1860年北京条約で中国人の海外への渡航が初めて認められました。
同じ頃、アメリカのラッセル商会が蒸気船による中国→アメリカ西海岸のルートを開発しました。
 
ラッセル商会が扱っていたのはトルコから中国へのアヘン輸出と、東アジアからの生糸と茶の輸出、そして苦力貿易でした。
 
そして、ラッセル商会はイギリスのジャーディン・マセソン社と業務提携していました。
 
ジャーディン・マセソン商会はアヘン戦争を起こした会社であり、子会社のグラバー商会は坂本龍馬に武器を売ったトーマス・グラバーとグラバー商会で有名です。
 
 
「19世紀後半のアジア・極東におけるアメリカ商船諸会社活動史研究」
北政巳 創価大学経済学部
『創価経済論集』29巻1/2号1-22 Mar-2000
 
 
苦力とはもともとインドのタミル語であり、当時はイギリス領インド帝国のインド人労働者が呼ばれ、次にアヘン戦争・アロー戦争で負けた中国の労働者たちが呼ばれた言葉です。
 
 
ラッセル商会のジョン・マレー・フォーブスはアメリカ大陸横断鉄道という大プロジェクトに関わっており、このアメリカ大陸横断鉄道の建設に苦力と呼ばれる中国人労働者が投入されました。
 
ラッセル商会のジョン・マレー・フォーブスの子孫が、オバマ政権のアメリカ国務長官ジョン・フォーブス・ケリーです。
 
ラッセル商会ジョン・マレー・フォーブスとともにアメリカ大陸横断鉄道をつくったリーランド・スタンフォードはスタンフォード大学を創設しました。
ラッセル商会の初期のメンバーであるウィリアム・ハンティントン・ラッセルはイエール大学を創設しました。
 
 
ラッセル商会の苦力貿易の担当者ウォーレン・デラノは大金持ちとなり、その孫がフランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領です。
 
現在のアメリカのエスタブリッシュメント、イエール大学、スタンフォード大学、ケリー国務長官やルーズベルト大統領は苦力貿易とアメリカ大陸横断鉄道のラッセル商会の遺産なのです。
 
アメリカ大陸横断鉄道から鉄道王ヴァンダービルト財閥、鉄道王ハリマン財閥、鉄を売ったUSスチールのカーネギー財閥、最終的に全てを金融で統合したモルガン財閥が生まれました。
 
 
アメリカの苦力貿易は幕末から明治時代の日本にも影響を与えています。
 
1852年のロバート・バウン号事件と1872年のマリア・ルス号事件です。
 
沖縄の石垣島には「唐人墓」があります。
1852年に中国・廈門からアメリカ・サンフランシスコに向かうロバート・バウン号のなかでアメリカ人は400人の清国人を裸にして辮髪を切り落とし、胸にPやCという焼きゴテで焼印を入れました。
Pはペルーの銀山労働、Cはキューバでサトウキビ・プランテーション労働という意味です。
 
そして労働者として役立たないと判断した病気持ちの清国人は甲板から突き落としてサメのエサとしました。
 
清国人労働者は激怒して反乱を起こし、アメリカ人船長を殺して、船を奪って逃げる途中で石垣島で座礁しました。
 
石垣島の人達は中国人を保護していましたが、イギリス軍艦とアメリカ軍艦が来て脱走した清国人を捜索し、その場で数人を処刑し、それを痛ましく思った石垣島の人達がつくったのが唐人墓です。
 
 
「苦力貿易とロバート・バウン号事件 : 福建師範大学におけるシンポジウムへの基調報告」
西里喜行『琉球大学教育学部紀要』1号92-110 1986-2
 
 
 
また、1872年のマリア・ルス号事件では、中国のマカオからペルーに向かう船マリア・ルス号から清国人が逃亡し、日本政府とマリア・ルス号船長の間で裁判となりました。
 
マリア・ルス号船長は清国人の返還を求めましたが、日本の裁判長、大江卓は、マリア・ルス号を奴隷運搬船と認定し、人道に反するものとして231人の清国人、苦力を解放させました。
 
その際に、イギリス人ジェンキンズから「日本にも娼妓という人身売買・奴隷制度がある」と批判された日本政府は1872年に人身売買を禁止する芸娼妓解放令を出しました。
 
 
中国人苦力は、香港やマカオやアモイで猪仔館に集められます。「猪仔」とはブタの子供のことです。
この言葉は差別的に感じますが、苦力研究の論文には必ず出てきます。
 
彼らは裸にされ、行き先のP(ペルー)やC(キューバ)やS(サンドウィッチ諸島)を胸に焼印されました(下記論文62-63ページ)。
清国で小学校の校長先生を務め、アフリカで教育者として働いてほしいと言われながら、ギアナに拉致された清国人の記録もあります。
 
 
「植民地奴隷制度と中国人苦力貿易–華僑経済史に関する一考察」
須山卓 長崎大学経済学部研究会
『経営と経済』 50(3), 43-71, 1970-10
 
 
上の論文にあるように、苦力としてだまされて海外に連れて行かれた中国人は次々と反乱を起こします。
 
砂糖プランテーションの支配者たちは「中国人労働者は使いにくい」と感じだしました。
 
そして、ペルーの砂糖プランテーション農場主たちに求められ、1898年から日本人のペルー移民が始まりました。
日系ペルー人の移民の歴史を調べてビックリしたことです。ペルーに行った日本人移民は中国の苦力たちの代替労働力としてサトウキビ畑で働いたのです。
 
 
日系移民は、ハワイのドール・フルーツ・カンパニーで鞭に打たれながら働きました。
そして、現代日本のスーパーやコンビニにはドールの商品が山積みになっています。
 
そして、1882年にアメリカで中国人排斥法が成立し、1924年に日系移民をターゲットにした排日移民法が成立します。「使い捨ての労働力」である日本人や中国人などのアジア人が、決して学校で習わない歴史です。
 
 
 

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