ロンドンの日本古方派と経方医学に関する歴史の議論

 
 
2020年10月20日フォルカー・シェイドのブログ
「歴史と神話学:中医学の経方医学における日本の影響について」
History and Mythology: Thoughts on the Japanese Influence on jingfang Style Chinese Medicine
History and Mythology: Thoughts on the Japanese Influence on jingfang Style Chinese Medicine (volkerscheid.net)
 
 
以下、引用。
 
ジョゼフ・ニーダム、ネイサン・シヴィン、マンフレッド・ポッカート、パウル・ウンシュルドらの中国医学へのアプローチは、中国の中医学の注釈を通じたものであった。
 
その一方で、スウェーデンのハンス・アグレンは、日本の注釈によるものであった。
 
わたしは後に、いわゆる古方派と呼ばれる漢方医学こそが、経方医学に影響を与えたことを学んだ。吉益東洞のような古方派の医師たちは、黄帝内経の伝統や五行や陰陽といった形而上学的な概念を拒否したのだ。
 
 
ジョゼフ・ニーダムは『中国のランセット:鍼灸の歴史と理論』や『中国の科学と文明〈第1巻 序篇〉』の著者です。
 

 
ネイサン・シヴィンは席文として知られる中国系アメリカ人で、ペンシルヴァニア大学教授で科学史の専門家であり、中国科学史・中国医学についての著作があります。
 
マンフレッド・ポッカートはソルボンヌ大学で博士号を取得した中国学者であり『システマティック鍼』の著者です。
 
パウル・ウンシュルドはドイツの科学史家、中国医学の研究者です。
 
ハンス・アグレンはスウェーデンの歴史学者であり、中国医学の研究者です。
 
 
以下、引用。
 
次に、わたしがこの議論を聞いたのは、30年後の中国医学史講義のなかであった。わたしはロンドンで『経方医学』の講義を聞いた。彼女は、経方医学では、内経と傷寒は別系統であると述べた。わたしは日本について疑問に思ったので、講師に対して『胡希恕の経方医学』では日本の情報ソースを書いているのかを尋ねた。彼女は答えることができない質問だった。
 
 
胡希恕先生は、北京中医薬大学教授で主著『経方医学』です。
 
以下、引用。
 
コビット19のロックダウンの間、わたしは中国医学の疫病のテキストを読むのに時間を費やした。そのテキストの一つが、1935年の南京の国医館の陳遜齋 (1888-1948) のものである。
 
1931年に南京に国民党政府がつくった国医研究所は、中国医学の近代化を明確な目標においていた。もっとも先進的なのは、上海から来た陸淵雷によるもので、日本の漢方をモデルとして中国医学を再構成しようとしていた。そして、陸淵雷の『傷寒論今釈』は中国古典の引用が35か所あるのに対して、45か所が日本の古典の引用である。
 
陸淵雷は革命家であり、医師でもあった章太炎(章炳麟)の弟子であった。章炳麟は何年も日本で亡命生活をしており、日本の古典を学び、称賛していた。事実、彼は日本を近代における東アジアの医学的中心地として描いて見せた。
 
南京の国医館での陳遜齋の仕事は、疑いなく日本の情報ソースから、傷寒の影響を受けている。事実、わたしの知っている限り、喜多村直寛は1923年に惲鉄樵 (うんてっしょう)による傷寒論研究で紹介されている。惲鉄樵は章炳麟の主治医であり、陸淵雷の師であり、全中国に数千人の生徒がおり、1920-1930年にもっとも有名な中国医学ライターであった。
 
 
 
南京中医薬大学の黄煌教授は日本式の傷寒論に基づく「経方医学」「方証相対」を中国で教え、中国の「学院派中医学=中医薬大学の中医学」を批判している中医学の世界の異端児です。
 
 
以下、引用。
 
現代中医学の理論は問題である。西洋医学の理論を混ぜて中医でもなく西洋医学でもない代物にしてしまった。
 
現代中医学の教科書を編纂する仕事は、1950 年代の大躍進のときに行われた。政治的な高揚期で、なんでも短期間に一気に作ってしまおうという雰囲気があった。教科書の代表とされる『中医学概論』も南京では6カ月で作ろうとした。当時は参考にできるものは何もない。西洋医学教育の材料しかなく、それをそのまま取り込んだ。明清時代の温病学説も目の前にあったので、手っ取り早く取り込まれた。こうして中医学の体系ができた。
 
理論としてはほぼ完璧なものができ上がったが、残念ながら臨床での指導性という点では、そこまで配慮するゆとりがなかった。編集者の老中医たちは当然、そのことをよく分かっていたが、臨床のない学生たちには正しく理解することは難しく、誤解されるところが多く存在した。特にその後の中医薬大学の青年教師たちはほとんど臨床が足らないため、教科書の理論を発展しようとしても実際には不可能だった。
 
教科書を新たに編纂すればするほど頁数だけが多くなり、内容はますますわかりにくいものになる。講義する教員は新しい教科書を理解することにも苦労するし、講義することもまた大変だった。それを聴く学生はますます疲れてしまう。挙げ句の果て、卒業後に中医の臨床業務への就職を希望する学生が激減する。このような結果を生み出す教育はおかしい。最近、学院派中医学に反対する声もよく聞かれる。特に現代中医学は改革しなければいけない時期を迎えている。中医学の問題点は、臨床問題を解決していないことである。
 
私は張仲景のもの、そして臨床を重視する。一方、学院派は臨床ができない。学院派は私のものを見てなにも手出しができない。表向きには反対できないが、心の内では反対している。方証理論は1つの学説ではあるけれども、本来の中医学ではないとか、方証相対は西洋医学のもの、経方は中医学全体の一部にすぎない、と矮小化して本質問題をそらす。
 
現代中医学はめちゃくちゃで規範がない。ある老中医の経験は私は承服できない。その人の臨床は規範がないから検証できない。規範がなければ発展できない。教科書中医学、現代中医学、学院派中医学は若者に正しくない考え方を教えてしまった。
 
私は現代中医学理論を強く批判している。特に臓腑弁証である。臓腑弁証は実際には西洋医学を土台にして作られたものだ。解釈のための理論としては非常に上手にできているが、残念なのは臨床の指導理論としての役割を果たせていないことだ。
 
(日本の平馬先生の質問)
今の中医学院ができる前の戦前の丁甘仁先生の教育はどんなものだったのか?
 
(黄煌先生の解答)
すばらしい。20 年代、30 年代の中医学はすばらしい。中医学だけでなく文学も哲学も思想も、芸術もすべてレベルが高い。
 
 
江蘇省の、先祖代々の伝承した中医の家系に生まれた黄煌先生は、1973年に19歳で文化大革命による下放を経験しました。
そこで12代続いた中医、叶秉仁先生に学びました。
 
1979年に南京中医薬大学に入学し、1982年に修士を取得します。
 
1989年から京都大学に留学し、京都の細野聖光園診療所で細野史郎先生や中田敬吾先生と交流しました。ここで『傷寒論』を重視する日本漢方「経方医学」と出会います。
 
1990-1997年は南京中医薬大学で業績を積み、中田敬吾先生と張仲景の薬方に関する2冊の本を出版します。
 
1999年から2001年は日本の順天堂大学で酒井シズ教授に医学史を学び、2001年に博士論文『徐霊胎と吉益東洞の学術思想の相違点および原因分析』で博士号を取得しました。
 
 
2001年『徐霊胎と吉益東洞 : その学術思想における異同点およびその原因の研究』
『日本醫史學雜誌』 47(2), 229-260, 2001-06-20
 
 
 
モンゴル帝国、元代の王履が1368年『医経溯洄集』の中で、傷寒論の張仲景に還るべきことを論じており、古方派の祖、名古屋玄医は王履に影響を受けて『医経溯洄集抄』を著しています。
 
 
日本漢方・古方派に大きな影響を与えた明代の医家に方有執がいます。明代、方有執の『傷寒論条弁』と明末の喩嘉言、喩昌の1648年の著作『尚論篇』が日本の江戸時代の古方派の形成に大きな影響を与えました。
 
 
清代、江蘇省の徐大椿は徐霊胎の字でも知られます。
 
1757年の徐大椿著『医学源流論』1764年の徐大椿著『医貫砭』も有名です。明代の命門学説を唱えた趙献可の1617年『医貫』に反論したものです。
 
 
徐大椿先生の理論では、中国伝統医学の帰経学説を徹底的に批判しています。
1759年の徐大椿著『傷寒類方』は方証相対の思想によるもので、確かに徐大椿は吉益東洞に似ています。
 
『経方医学』の謎を解くには、金元明清から中華民国の中国医学の歴史と江戸時代から幕末、明治時代の日本漢方医学の歴史の知識の両方が必要なようです。
 
 

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