1930年代の東西医学論争

愼蒼健
「覇道に抗する王道としての医学ー1930年代朝鮮における東西医学論争からー」
『思想』 (905), 65-92, 1999-11岩波書店


論文著者である東京理科大学の愼蒼健教授は、2009年から現在まで大韓醫史學會誌の編集者・査読者です。

この論文では、趙憲泳という医師の思想について書かれています。

1897年-1905年の大韓帝国の頃の朝鮮は、酌古参新という西洋医学と東洋医学を平等に両立させる政策をとっていました。


1905年の乙巳条約(第2次日韓協約)で大韓帝国は大日本帝国の保護国となり、日本政府は廣済院から朝鮮人漢方医師を追放してしまいます。


1916年に日本政府は京城医学専門学校(京城帝国大学医学部)を設立し、西洋医学を推進しますが、西洋医学の治療費の高さのために農村部には西洋医学は浸透せず、伝統医学が利用されていました。

趙憲泳は1900年に朝鮮に生まれ、早稲田大学英文科に留学します。1920年代は非妥協的民族主義者でしたが、30代になってはじめて漢医学書(韓医学書)を学び始めます。1934年には漢医学復興運動を起こしました。

和田啓十郎の『医界之鉄椎』を翻訳した医師・張基茂は1934年に『朝鮮日報』に「漢方医学復興策」という論文を発表し、朝鮮人の西洋医師と論争が起こります。

趙憲泳は、1934年に『通俗漢醫學原論』、1935年に『物質文明はどこへ』を出版し、1930年代の朝鮮の民衆の困窮を描きました。そして西洋文明は覇道であり、西洋の物質文明で人間は幸せになれないとして、東洋の精神文明(王道)を復興することを提唱しました。

特徴的なのは、当時の朝鮮には民衆を主体として、小資本で地域の資源を活用して事業を立ち上げようという思想があり、趙憲泳も民衆が漢方の基礎知識を持ち、自分の手で薬草を栽培し、活用し、自分自身が主体となるという思想を提唱していたことです。これは1930年代としては驚異的に先進的な思想だと思います。これは尊敬できる思想です。

趙憲泳は戦後に韓国の国会議員となりましたが、1950年に朝鮮戦争が起こった際にソウルに残り、北朝鮮に拉致されます。北朝鮮の平壌でも韓医学の研究を続け、多くの医学古典研究を発表し、1988年に北朝鮮で亡くなりました。

われわれが知らないのは、帝国医療の歴史です。満洲医科大学東亜医学研究所の岡西為人先生の『宋以前医籍考』(1936年)や、京城(ソウル)帝国大学の杉原徳行先生の漢方生薬研究や灸の研究をした大沢勝先生、あるいは台湾の台北帝国大学医学部教授の杜聡明先生が1928年に「漢方医学に関する研究方法の考察」を書いていることです。京城帝国大学の杉原徳行先生は、鍼灸の論文や文献も残され、戦後、明治鍼灸専門学校で教鞭をとられたそうです。

愼蒼健先生の帝国医療の研究を読んでいくうちに、日本だけでなく、朝鮮・満州・台湾をむすんで議論されていた戦前の東西医学論争が浮かび上がってきました。趙憲泳という一人の人間の人生から紡ぎだされた医学思想を知ることができて、本当に良かったです。東洋医学の歴史は、われわれが考えている以上に深いです。

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