難波と羽栗翼

「古代難波の荘と物流-難波地域史の試み」
栄原永遠男

以下、引用。

まず最初に『続日本紀』天応元年(781)6 月壬子(25 日)条に注目したい(史料1)。

「遣従五位下勅旨大丞羽栗臣翼於難破、令練朴消」これは従5 位下の勅旨大丞である羽栗臣翼という高官を難波に派遣して「朴消」を練らせたという何の変哲もない簡単な史料である。しかし、実はこの短い史料には古代の難波を考えるキーポイントが秘められている。

森鹿三によると、奈良時代の日本の薬局方は、顕慶4 年(659)蘇敬らの撰による『新修本草』20 巻であったという5。これは、陶弘景『本草経集注』7 巻の誤謬を正し、100 種を追加したものであった。

難波薬師らの祖は雄略朝に百済から来日した徳来という人物であるが、その5 世の孫の恵日は推古朝に隋に行き、医術を学んだので薬師の姓を与えられた。子孫たちもその姓を受け継いだが、名実が錯乱するのを恐れるので、薬師を改めて難波連としたいと願い出て許された、という。

瀧川は、上代の難波は日本医学の淵叢であると指摘している。

このように難波には医術の心得のある人材が多くいたために、朴消は難波に置かれることが好都合とみられたのであろう。

羽栗翼が派遣された天応元年ごろの勅旨省は、宮中の必要品の調達を主たる業務としていたと考えられる。天皇の常備薬の確保も勅旨省の業務であったであろう。その勅旨省は、次節で述べるように、難波堀江の南岸に荘を持っていたので朴消はここに集積されていたとみてよい。

「難波堀江」は現在の堀江とは違い、天満橋のあたりではないかとされています。難波津の位置も論争が続いているそうです。

羽栗翼は内薬正として桓武天皇に仕えた記録があります。

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