楊上善『黄帝内経太素』

楊上善『黄帝内経太素』は『旧唐書』巻四十七に記述があります。

《旧唐书》卷四十七 志第二十七 经籍下
黄帝内经太素三十卷杨上善注。

唐代初めの人、楊上善が注釈した『黄帝内経太素』は『素問』『霊枢』の旧文を伝える重要な文献です。

中国では、金代の1126年の靖康の変の際に逸失しました。日本では鎌倉時代に筆写されたものが日本の仁和寺に保存されました。

江戸時代、1820年(文政3年)に京都の侍医、福井榕亭と福井棣園が影刻し、江戸時代・考証学派が研究しました。

清国大使の何如璋が1880年に、1884年に楊守敬が『太素』を清国にもたらし、1897年には清国で出版されています。

1952年、仁和寺本『太素』が国宝に指定されます。

1981年にはオリエント出版社から『東洋医学善本叢書・仁和寺本黄帝内経太素』が出版されます。

2006年には北京中医薬大学の銭超塵教授による『黄帝内経太素 新校正』が出版されました。

平安時代、927年の『延喜式』の典薬寮の医学教科書として『太素』『明堂』『新修本草』が挙げられています。

楊上善『黄帝内経明堂』の序文でも『太素』と『明堂』は一対とされています。

調べているうちに知ったのですが、真柳誠先生は『太素』の将来に遣唐使の吉備真備と阿倍仲麻呂が関係していた可能性を指摘されているようです。

真柳誠
「『太素』の日本伝来と阿倍仲麻呂・吉備真備の関与」
『日本医史学雑誌』60巻2号149頁、2014年6月20日

以下、引用。

以上からすると、仲麻呂の関与で真備が735年に『太素』を将来した蓋然性はたかいと推断するのがもっとも穏当だろう。

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