2023年3月23日『韓医新聞』
「医史学で読む近現代韓医学(492)」
醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學(492)
以下、引用。
①東洋和漢醫學硏究會: 1927年に結成された。趣旨は漢方医学を科学的に理解して現代医学を補完するものだ。この研究会では、漢方医学に対する短期講習を提供する活動を行った。渡邊熙、藤本豊吉、中野康章などだった。この研究会の学術研究に参加する人物として森田幸門、黑川惠寬などがいる。
渡辺熈(わたなべ・ひろし)は1927年ー1932年に『東洋和漢醫學實驗集 : 現代醫學改造の烽火』(東洋和漢醫學研究會)を書いています。中野康章は浅田宗伯の直弟子です。中野康章先生は『杏林清風』という浅田宗伯先生の文献を書いています。中野康章に学んだのが森田幸門です。
1967年「皇漢医学に還れー盲信された泰西医学」
森田 幸門
『日本東洋醫學會誌』1967 年 18 巻 3 号 p. 108-113
千葉経済大学の川口陽徳准が書いた「漢方医道の継承 : 浅田宗伯の知識観と師弟関係」という論文は参考になります。
2006年
「漢方医道の継承 : 浅田宗伯の知識観と師弟関係」
川口陽徳
東京大学大学院教育学研究科紀要 45, 11-20
以下、引用。
② 東洋醫道會:1928年東京で創立され、『皇漢醫界』という学術雑誌を刊行した。プロモーターは南拜山だった。この集まりは、漢方医家を連合して漢方医学を復興させるものであった。成立初期に木村博昭と湯本求眞に従う医家たちを包括して始めた。それ以外に新妻良甫、大塚敬節、矢數道明などがこの会の会員だった。
南拜山は九州出身で、アメリカとイギリスに留学して哲学を学び、帰国して『漢薬成分の化学的研究』を書いた朝比奈泰彦に薬学を学びます。1927年に東洋医道会を組織し、1928年に台湾支部で『漢文・皇漢字医界』を出版します。この『漢文・皇漢字医界』は1930年に『台湾皇漢医界』、さらに1935年に『東西医薬報』と改称され、当時の台湾医学を記録した貴重な文献・雑誌となりました。
以下、引用。
③皇漢醫道會:1928年5月、東洋醫道會から出た木村博昭らが創立した。6月に講習所を開いて教育にも力を入れた。1929年5月には『醫道』という学術雑誌を創刊した。
木村博昭も浅田宗伯先生の門人で、その後継者である木村長久の本が復刻されています。
https://amzn.to/4bJ9wjP『浅田流漢方 済世堂論叢 ―木村長久遺稿集―』
たにぐち書店1994年
以下、引用。
④ 東洋古醫學硏究會: 1932年5月、湯本求眞の文人である佐藤省吾、荒木性次、大塚敬節、山城正好などが創立し、学術雑誌『古醫道』を創刊した。毎月学術討論会を開催した。
荒木性次は薬剤師として湯本求真に学び、1955年から朴庵塾を主宰します。1976年に亡くなりますが、2013年に自宅から発見された『漢方備忘録』が出版されています。
荒木性次
『漢方備忘録』
源草社 (2014/6/10)
以下、引用。
⑤ 日本漢方醫學會: 1934年3月創立とともに『漢方與漢藥』という月刊誌を創刊した。漢方医学を中心に欧米の西洋医学を連結させ、漢方医学を復興させることを目指した。石原保秀、奧田謙藏、大塚敬節、中野康章、栗原廣三、矢數道明、柳谷素靈、安西安周、木村長久、木村雄四郞、湯本求眞、淸水藤太郎などが中心人物だった。
柳谷素霊が鍼灸で唯一入っています。柳谷素霊の次の名前である安西安周も浅田流漢方です。この時代は浅田宗伯の系譜が多い印象があります。2019年に『日本儒医研究』が復刻されて出版されていました。
『日本儒医研究』
安西安周
たにぐち書店; A5版 (2019/7/18)
日本漢方と台湾医学とのつながりを見つけることができたのが収穫です
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