中医学創成期 孟河学派への旅:ドラマ『老中医』 国医から中医へ

 

 

2019年3月9日『香港文匯報』
中医学・創成期「孟河学派」への旅:ドラマ『老中医』:「国医」から「中医」へ
2019年3月9日歷史與空間:「孟河醫派」

 

中国の俳優、陳宝国主演のテレビドラマ『老中医』は中医学の孟河学派を描いたドラマだそうです。

 

孟河学派の代表は、1865年に『医方論』を著した費伯雄です。西太后を治療した馬培之、巢崇山、巢渭芳、丁甘仁などの、費・馬・巣・丁の孟河四大医家が有名です。

 

孟河学派の丁甘仁先生は、1917年に上海中医専門学校を創立しました。この学校には1919年に秦伯未先生が入学し、秦伯未先生は1949年に北京中医学院の教務長となります。秦伯未先生の『中医入門』は日本語訳もある名著です。

 

上海中医専門学校は後の上海中医学院、上海中医薬大学であり、南京中医学院と上海中医学院の教科書が「中医学」を形成しました。日本の中医学鍼灸も、浅川要先生が上海中医学院の『針灸学 (1977年)』(刊々堂)を翻訳して始まりました。

 

1920年代から1930年代の当時の中華民国では、「中医」ではなく「国医」と呼ばれ、丁甘仁先生は1920年に上海国医学会の会長となり、『国医雑誌』を出版します。この陳宝国のドラマ『老中医』は、まさに1920年から1940年の上海を舞台にしているそうです。

 

現代の中医学鍼灸の基礎を創った陸痩燕先生は、1920年代の上海にいたはずです。陸痩燕先生のお父さんは、三伏天を提唱した鍼灸家、李培卿先生です。1926年の上海には火神派の祝味菊先生もいたはずです。

 

1928年には大阪医科大学で学んだ旺企張が中医廃止案を提案し、1929年2月に大阪医科大学で学んだ余雲岫が『医学革命論集』を出版して提案した「旧医学の廃止」が衛生部(厚生労働省)の会議で決議されます。

 

1929年3月17日にこれに反発した中国全土の伝統医学グループが上海で会議を行い、中医薬連合会を組織し、中医廃止案をひっくりかえしました。これ以降、伝統医師は組織化され、1931年3月には国医館が南京につくられました。

 

1930年代の上海は日本人アヘン王、里見甫が活躍し、青幇・上海マフィアの杜月笙が支配する魔都・上海です。日本の歴史とも関わりが深いアヘン戦争のジャーディン・マセソン商会やサッスーン商会はこの頃の上海に壮麗な建築物を建てて今も残り、そして神戸・旧居留地にも存在していました。サッスーン商会とマセソン商会が創った香港上海銀行(HSBC)や、マセソン商会から生まれた現在のマカオのカジノ王、スタンレー・ホーの先祖ロバート・ホー・トン卿のことを日本人は何も知らないです。

 

あるいは、ジャーディン・マセソン商会から生まれた武器商人グラバー商会と岩崎弥太郎や坂本龍馬の関係をアジア人は知らないです。ジャーディン・マセソン商会がイギリス留学させたマセソン・ボーイズ、伊藤博文や井上馨と植民地であった朝鮮や台湾の関係も何も知らないです。日本人は香港・上海・マカオ・神戸・台湾、アジアの歴史などを何一つ知りません。中国人や台湾人も歴史について何一つ知らないし、神戸の人たちも神戸の歴史を何も知りません。中国伝統医学やインド伝統医学、あるいは東アジアの伝統医学を学んで良かったと思うことの一つは、アジアの歴史をより深く知ることができたことです。

 

 

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