鍼灸文化遺産をどのように伝承していくのか

 

 

2020年12月10日中国・国家中医薬管理局
「鍼灸文化遺産10周年:鍼灸文化遺産をどのように伝承していくのか?専門家たちは述べる」
 
 
以下、引用。
鍼灸は100年前から没落し続けている。学術的観点から見ると、現代の鍼灸学は近代の中西医学結合に起源がある。
夏有兵の紹介によれば、1822年清朝の道光帝は歴代皇帝が太医院に鍼灸専門家を置いていたのに対し、永久に鍼灸科を停止した。それ以来、政界と学術界は鍼灸から離れていった。鍼灸の没落は100年も続き、100年後(1922年)に生き残っている鍼灸家は数えるほどだった。
20世紀も1920年代となり、承淡安が医学と学術を復興させ、本を書き、中西医学結合を特色とした現代鍼灸学研究グループを形成し、鍼灸医学は再び脚光を浴びて新しい鍼灸流派は絶えず出現するようになった。
程莘農は経絡現代研究をリードし、邱茂良は臨床研究をリードした。楊甲三は現代シュ穴研究をリードした。承淡安が提唱した現代鍼灸学の基礎の上にいっそう研究は深められていった。
 
 
 
承淡安先生は1934年10月29日に福建省から旅立ち、長崎に着き、11月6日から東京にやってきました。1935年1月から5月まで東京高等針灸学院(現在の呉竹)で学び、坂本貢校長は雅叙園で宴会を催し、壮行会を行いました。
 
そして中国に帰国して、承淡安先生は現在の中西医結合的な中国針灸を形成していきます。承淡安の同志、羅兆据先生は『针灸便览表』『实用针灸指要』『针灸穴腧治疗歌』などを出版しました。1934年に『実用鍼灸指要』で穴性を記述しました。
 
1950年代に任応秋先生と秦伯未先生が弁証論治を提唱します。1958年に陸痩燕先生が「鍼灸医学の発展道路」と 「針灸弁証論治における処方から配穴に至る順序の原則」を発表されて、鍼灸弁証論治という方向性がうちだされます。
 
 
1958年「鍼灸医学の発展道路」
针灸医学的发展道路——访问江苏省中医学校观感
陆瘦燕 黄羡明 《江苏中医》 1958年04期
 
 
1958年12月「針灸弁証論治における処方から配穴に至る順序の原則」
从针灸的辨证论治程序谈到处方配穴原则
陆瘦燕 《上海中医药杂志》 1958年12期
 
 
また、承淡安先生の門下である内科医であった楊長森先生が、中医薬の理法方薬を応用して鍼灸弁証論治の理法方穴術という考え方を作りました。楊長森先生は1950年代に『鍼灸学講義』という教材を作成し、これは教材(第一版高等中医院校针灸学教材)となり、1980年代に『鍼灸治療学』という教科書となりました 。
 
また、承淡安先生の門下である邱茂良先生は1956年に『内科鍼灸治療学』を出版されました。
1959年には鍼灸による肺結核の治療を報告し、1978年には鍼灸による胆石症と細菌性下痢の治療を報告し、1982年には鍼灸による脳卒中の治療で血流量の変化を調べています。鍼灸による内科、臓腑病の治療を検証され、1962年に以下の論文を書かれています。
 
 
1962年「針灸療法と弁証施治」
针灸疗法与辨证施治
邱茂良《江苏中医药》 1962年05期
 
 
承淡安先生、程莘農先生、邱茂良先生、楊甲三先生が現代の中医鍼灸を創り上げました。
 
 

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