杉山流と杉山真伝流の鍼

雑誌『経絡治療』第1巻3号15p、1965年(昭和40年)に収録の
「今は昔」より以下、引用。

昔から鍼医に二代なしと言われている。

鍼の技術は言い表せない、書き残せない故であろう。

この連載では、明治からの日本の鍼灸流派の記憶をふりかえっています。

その中で、両国国技館裏の河合貞升先生と神田水道橋の佐藤喜又先生が名人として書かれています。

以下、引用。

杉山流の河合貞升と言う盲人の名鍼医が出現した。杉山神社のある処だけあって、当時には本所付近には上手な鍼医がいたが、河合貞升は抜群であった。

使用した鍼は金と銀で、毛鍼・一番・二番・三番の寸3と寸6で、其の他に長鍼。鍼管は銀の八角形だった。

河合貞升先生は、よく定紋入りの自家用人力車でわたしの家へ来た。その当時、医者でも人力車を持っていた人はそうはいなかったようである。

河合貞升先生は、大正6年頃(1917年)死去したが、名医に二代なしのたとえのように跡を継ぐ者がなかった。しかし、優秀な門下が2人いた。足弟子を河村昇山、弟弟子を岡田昇敬といった。

師匠譲りの名手で、鍼も師匠と同じような鍼を使用し、脈診も上手で親切な治療をしていた。勿論、患者はあとをたたなかった。風邪の折、患者のために無理をして臨床したのがもとで、わずか三日で急性肺炎で急死し、五十代の若さで死を早めたことは実に残念であった。しかし、後輩にはよい教訓であって、流行る治療家は心すべきである。名医に二代なしで、跡を継ぐ者なく、子息達は別の職業である。

※神戸源蔵「今は昔」『経絡治療』第10号、17-18ページ、1967年(昭和42年)より引用

この河合貞升先生の文献を国会図書館近代デジタルライブラリーで発見しました。

1891年(明治24年)河合貞升『鍼科全書』
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834650
http://kindai.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/834651/4

東に河合貞升、西に佐藤喜又ありと噂が流れたのは大正初期頃からで、共に東西の横綱格であった。

鍼法は杉山真伝流であった。

用いる鍼管は純銀製八角形の四匁三分の太めのものである。四匁三分(約15グラム)というと普通太さの倍以上の太さであって、純銀製なのでドッシリした重さがある。

※神戸源蔵「今は昔」『経絡治療』第11号39-40ページより引用

10年ぐらい前、東京で行われた大浦慈観先生の杉山真伝流の勉強会に行った際に、再現した鍼管を見せていただいたことがあります。

鍼管にネジがついて伸び縮みします。鍼を研ぐと寸6が寸3になったり、短くなるので、鍼管の長さをそれとあわせてネジ式で伸び縮みできるようにしたものでした。

真伝流の管鍼の修行法に触れてみると、桶の中に満々と水をはり、茄子を浮かせて、茄子に鍼管をあてて打鍼または刺鍼する。この場合、茄子が沈まぬように訓練するのであるが、使用する鍼は1番の寸六の細鍼なので相当の苦心が必要である。杉山真伝流の使用する鍼は金と銀で、寸六の1,2,3,5番であって、そのうち多く使用されたのは2番で、次に3番、1番、5番の順であった。

名鍼医は鍼を選ぶという鉄則があるが、佐藤喜又先生は鍼に対しては最も厳しい人であった。

佐藤喜又先生の治療所は立派であった。

患者は『門前、市をなす』で、幼児から年寄りまで男女を問わず患者の層は厚かった。早朝から患者が押しかけてきたが、多数の患者だからといって決して粗雑な治療はしなかった。一人一人の患者に当たって刺鍼する穴は少なかったが、打つ鍼には精神がこもっていて神々しい姿であった。またよく杉山流の管散術を行っていた。

佐藤先生は往診もした。往診は人力車であったが、医師は別として鍼術治療家で車夫を雇い、定紋入りの人力車を持っていたのは河合貞升先生と佐藤喜又先生の2人だけであった。佐藤喜又先生の唯一の楽しみは休日に軽井沢の別荘にいって静かに酒を飲むことであった。

流行ると治療家は長生きできないということはまことに残念であるが、佐藤喜又先生は大正15年(1926年)、56歳の働き盛りに脳溢血のため急死した。

※神戸源蔵「今は昔」『経絡治療』第11号39-40ページより引用

2003年に東京、両国の杉山神社の金庫の中から、失われた文献『杉山真伝流』(※1)が発見されました。

これは杉山真伝流第61代家元の馬場美静氏の所蔵物で、杉山検校遺徳顕彰会に寄贈されたものです。

杉山和一総検校の直弟子、2代目総検校・三島安一と3代目総検校・島浦和田一によって創始されたのが「杉山真伝流」です。

失われた文献『杉山真伝流』は、表之巻、中之巻、竜虎之巻、秘密巻、皆伝之巻で構成されていました。杉山真伝流継承者の吉田弘道先生から柳谷素霊先生が学び、現在の教科書に「杉山流手技」が掲載されました。現在、大浦慈観先生によって、『杉山真伝流』の実像が解明されつつあります(※2、※3)。

杉山真伝流の教育は以下のようになります。

【第1段階】6年間あり、3年が按摩、3年が鍼の修行でした。14-15才で入門し、17才までの3年間は、杉山流鍼学皆伝の免許で、いわゆる基礎編を学びました。按摩のみ、または鍼のみの免許の者もいたようです。教科書は、杉山三部書(療治之大概集・選鍼三要集・医学節用集)を用いました。

【第2段階】17才から28才前後までの修行段階。教科書は、杉山真伝流の表の巻を中心に用いました。

【第3段階】30才前後の3年間。修了すると門人神文帳一冊が伝授され、他人に伝授できる段階と認められる。いわば教員免許状に当たる。教科書は杉山真伝流目録の巻物一巻(真伝流の表の巻・中の巻・奥龍虎の巻)

【第4段階】50才前後。修めると、杉山真伝流秘伝一巻が伝授された。

ここで、重要なのは、14歳から17歳までの初心者の3年間は、あん摩を徹底的に学んだことです。3年間のあん摩で手の感覚をつくったことが杉山真伝流の技術の基礎になっていると思われます。

それにしても、江戸時代の日本では、14歳から始まり、50歳までの35年間のスパンで教育をやっていたんですね…。ナスビを桶に浮かべての「浮き物通し」とか、「硬物どおし」、「生き物どおし」の鍼の修行法。河合貞升先生は、服の上からうつ「衣通しの鍼」で有名だったようです(←銀鍼!)。

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※1:『秘傳・杉山眞傳流』杉山検校遺徳顕彰会、桜雲会、平成16年(2004年)
http://www.amazon.co.jp/dp/499020350X
※2:大村慈観『杉山真伝流臨床指南』六然社 (2007/10)
http://www.amazon.co.jp/dp/4901609254
※3:大村慈観『杉山和一の刺鍼テクニック』医道の日本社 (2012/05)
http://www.amazon.co.jp/dp/4752911272
※4:杉山和一『杉山流三部書』たにぐち書店
http://www.amazon.co.jp/dp/4861292042

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