『王叔和脈訣』から拡がる世界

ペルシア語訳『王叔和脈訣』の中国語原本について
羽田 亨一
『アジア・アフリカ言語文化研究』 48-49, 719-726, 1995

モンゴル帝国イル=ハン国のガザン=ハンはチベット仏教からイスラム教に改宗し、バクダードのユダヤ医師で首相だったラシードゥッディーンに『集史』の編纂を命じました。

大歴史家、政治家にしてユダヤ医師のラシードゥッディーンは『キタイ(中国)の学知と技芸に関するイルハン国の珍しい宝の書』というトルコのイスタンブールに現存する文献を1313年に書きました。

現代ロシア語でкитай(キタイ)は中国の意味ですが、これは遼(りょう=キタイ)王朝を創った契丹(きったん)が語源だそうです。

ラシードゥッディーンの書いた『宝の書』の内容は、王叔和の『脈経』を覚えやすくするために南宋代に崔嘉彦が書いた歌訣『脈訣』のペルシャ語訳です。

2016年に中国語の音韻学の専門家である遠藤光暁先生がモンゴル時代の中国語はどのような音で発音されていたのかをペルシャ語訳『脈訣』から復元するという文献を出版されました。

「元代音研究 資料篇―『脈訣』ペルシャ語訳による」
遠藤 光暁
汲古書院 (2016/04)

2007年には東京学芸大学の渡辺純成助教が「満洲語医学文献雑考」の中で満州語に翻訳された『満文・王叔和脈訣』を論じました。

「満洲語医学文献雑考」
渡辺純成
『満族史研究』 6 96-122 2007年12月

ロシア科学アカデミー東洋学研究所サンクト・ペテルブルク支部には”sabsiresuihasindaraferguwecukearga”(『鍼灸の奇跡的な方法』)と題する満洲語の鍼灸医学文献が所蔵されているそうです。

王叔和は三国志時代の220年から西晋代の316年頃の人物です。

『脈経』は最初の脈診専門書で、浮、芤、洪、滑、数、促、弦、紧、沉、伏、革、实、微、涩、细、软、弱、虚、散、缓、迟、结、代、动の「二十四脈」が書かれています。

1189年、南宋代に崔嘉彦が書いた歌訣『脈訣』 は『王叔和脈訣』とも呼ばれ、「七表・八裏・九道の脈」を最初に提唱した文献です。1313年にラシードゥッディーンによりペルシャ語に翻訳され、満州語にまで翻訳されました。ペルシャ語や満州語でも「七表・八裏・九道の脈」というそうです。

七表(浮、芤、滑、实、弦、紧、洪)、
八里(微、沉、缓、涩、迟、伏、濡、弱)、
九道(长、短、虚、促、结、代、牢、动、细)

1359年に元代の滑寿が『診家枢要』で三十脈を提唱しました。

浮、沉、迟、数、虚、实、洪、微、弦、缓、滑、涩、长、短、大、小、紧、弱、动、伏、促、结、芤、革、濡、牢、疾、细、代、散

1564年に明代の李時珍が『瀕湖脈学』を書いて二十七脈に整理しました。

浮、沉、迟、数、滑、涩、虚、实、长、短、洪、微、紧、缓、芤、弦、革、牢、濡、弱、散、细、伏、动、促、结、代

1642年に明代の李中梓が書いた『診家正』では二十八脈に整理されました。脈経の二十四脈に濡、短、长、牢、疾を入れて、軟脈を減らしました。

浮、沉、迟、数、滑、涩、虚、实、长、短、洪、微、紧、缓、弦、芤、革、牢、濡、弱、散、细、伏、动、促、结、代、大

日本の鍼灸師国家試験にも出題される「七表の脈」「八裏の脈」「九道の脈」という脈の分類には、なんと数脈が入っていないという致命的欠点があります。

また、季節の五脈である春の弦脈、夏の洪脈・鈎脈、長夏の緩脈・代脈、秋の毛脈、冬の石脈
の毛脈や石脈や鈎脈が二十八脈には含まれていません。脈診の研究は整理されていない印象があります。

《黄帝内经素问·宣明五气篇》:“五脉应象:肝脉弦,心脉钩(洪),脾脉代(缓),肺脉毛(浮),肾脉石(沉)。是谓五脏之脉。”

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