黄煌教授の日本由来の『経方医学』と『方証相対』

2019年4月9日、中国の新聞『无锡日报』
「黄煌教授、経方(張仲景方)の夢、わたしの中国の夢」
黄煌:经方梦,我的中国梦


南京中医薬大学の黄煌教授は日本と中国で多くの著作を出版されています。特に『中医伝統流派の系譜』は日本古方派や日本後世派なども含めて論じられ、名著だと思います。

黄煌著『中医伝統流派の系譜
東洋学術出版社 (2000/12)

南京中医薬大学の黄煌教授は、日本式の傷寒論に基づく「経方医学」「方証相対」を中国で教えて、中国の「学院派中医学=中医薬大学の中医学」を批判している中医学の世界の異端児です。

以下、2014年日本中医学会『黄煌先生が熱く語る――方証相対と現代中医学 』より引用。

現代中医学の理論は問題です。西洋医学の理論を混ぜて中医でもなく西洋医学でもない代物にしてしまった。

現代中医学の教科書を編纂する仕事は1950 年代の大躍進のときに行われた。政治的な高揚期で、なんでも短期間に一気に作ってしまおうという雰囲気があった。教科書の代表とされる『中医学概論』も南京では6カ月で作ろうとした。当時は参考にできるものは何もない。西洋医学教育の材料しかないので、それをそのまま取り込んだ。明清時代の温病学説も目の前にあったので手っ取り早く取り込まれた。こうして中医学の体系ができた。

理論としてはほぼ完璧なものができ上がったが、残念ながら臨床での指導性まで配慮するゆとりがなかった。編集者の老中医たちは当然そのことをよく分かっていたが、臨床のない学生たちには正しく理解することは難しく、誤解されるところが多く存在した。特にその後の中医薬大学の青年教師たちはほとんど臨床が足りないから、教科書の理論を発展しようとしても実際には不可能だった。

教科書を新たに編纂すればするほど頁数だけが多くなり、内容はますますわかりにくいものになった。講義する教員は新しい教科書を理解することにも苦労するし、講義することも大変で、それを聴く学生はますます疲れてしまう。挙げ句の果ては、卒業後に中医の臨床業務への就職を希望する学生が激減してしまう。このような結果を生み出す教育はおかしい。最近、学院派中医学に反対する声もよく聞かれる。特に現代中医学は改革しなければいけない時期を迎えているようだ。中医学の問題点は臨床問題を解決していないことだ。

私は張仲景のもの、そして臨床を重視する。一方、学院派は臨床ができない。学院派は私のものを見てなにも手出しができない。表向きには反対できないのですが、心の内では反対している。方証理論は1つの学説ではあるけれども、本来の中医学ではないとか、方証相対は西洋医学のもの、経方は中医学全体の一部にすぎない、と矮小化して本質問題をそらす。

現代中医学はめちゃくちゃ。規範がない。ある老中医の経験は私は承服できない。その人の臨床は規範がないから検証できない。規範がなければ発展できない。教科書中医学、現代中医学、学院派中医学は若者に正しくない考え方を教えてしまった。

私は現代中医学理論、特に臓腑弁証を強く批判している。臓腑弁証は実際には西洋医学を土台にして作られたものである。解釈のための理論としては非常に上手にできているが、残念なのは臨床の指導理論としての役割を果たせていないことだ。

(日本の平馬先生の質問)
今の中医学院ができる前の戦前の丁甘仁先生の教育はどんなものだったのか。

(黄煌先生の解答)
すばらしい。20 年代、30 年代の中医学はすばらしい。中医学だけでなく文学も哲学も思想も芸術もすべてレベルが高い。

私は黄煌先生とまったく同意見です。中医薬大学の学院派中医学には異和感しか感じません。

江蘇省の先祖代々の伝承した中医の家系に生まれた黄煌先生は1973年に19歳で文化大革命による下放を経験しました。そこで12代続いた中医、叶秉仁先生に学びました。1979年に南京中医薬大学に入学し、1982年に修士を取得します。1989年から京都大学に留学し、京都の細野聖光園診療所で細野史郎先生や中田敬吾先生と交流されました。ここで『傷寒論』を重視する日本漢方、「経方医学」と出会います。

1990-1997年は南京中医薬大学で業績を積み、中田敬吾先生と張仲景の薬方に関する2冊の本を出版します。

黄煌、中田敬吾著『十大類方―Kampo』雄渾社 (1998/01)

黄煌、中田敬吾著『張仲景50味薬証論』鍬谷書店 (1998/04)

1999年から2001年は日本の順天堂大学で酒井シズ教授に医学史を学び、2001年に博士論文『徐霊胎と吉益東洞の学術思想の相違点および原因分析(徐灵胎与吉益东洞学术思想的异同点及其原因分析)』で博士号を取得されました。

2001年『徐霊胎と吉益東洞 : その学術思想における異同点およびその原因の研究』
『日本醫史學雜誌』 47(2), 229-260, 2001-06-20
https://ci.nii.ac.jp/naid/10007863403
http://jsmh.umin.jp/journal/47-2/229-260.pdf
(オープンアクセスPDFファイルで、日本語で読めます)

清代、江蘇省の徐大椿は徐霊胎の字でも知られます。

1757年 徐大椿著『医学源流論』、1764年の徐大椿著『医貫砭』で有名です。明代の命門学説を唱えた趙献可の1617年『医貫』に反論したものです。

徐大椿先生の理論では中国伝統医学の帰経学説を徹底的に批判しています。1759年の徐大椿著『傷寒類方』は方証相対の思想によるもので、確かに徐大椿は吉益東洞に似ています。

もともとモンゴル帝国、元代の王履が1368年『医経溯洄集』の中で傷寒論の張仲景に還るべきことを論じており、古方派の祖、名古屋玄医は王履に影響を受けて『医経溯洄集抄』を著しています。

1368年、王履(1332-1391)著『医経溯洄集』
http://www.zysj.com.cn/lilunshuji/yijingsuhuiji/index.html

日本漢方・古方派に大きな影響を与えた明代の医家に方有執がいます。明代、方有執の『傷寒論条弁』と明末の喩嘉言、喩昌の1648年の著作『尚論篇』が日本の江戸時代の古方派の形成に大きな影響を与えました。

個人的意見ですが、中国における儒学から考証学へと至る宋代・金元代・明代・清代の中国思想の歴史の流れと、日本における儒学・古学・古文辞学・考証学の歴史の全体像を知らずに江戸時代の漢方鍼灸を考えることは地図なしで目的地に着こうとするようなものです。南京中医薬大学の黄煌教授の考え方は、中国伝統医学の歴史の中でも最も面白い、最前線の部分です。

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