米国で代替医療が滅びた経緯

2016年8月10日『ハフィントンポスト』
「アメリカの医学の歴史」

米国の代替医療の歴史を概括したものがないので資料として投稿します。以下、引用。

1775年に起こったアメリカ独立戦争においては、これらの大学で学んだ医師も多数参加した。しかし、この時期メディカルスクールを修了してM.Dの称号を持つ医者は全体の10%で、ほとんどの医者は他の医者の真似をして医療行為を行っていた。

知識や技術の水準が不明な医者が多いという状況を見た。これを鑑みて1847年にNew York Medical Societyによって、AMA(アメリカ医師会)が設立されて医者の質を上げることが画策された。しかし、当時はジャクソニアンデモクラシーが市民権を得ていたため、専門知識を持った特別階層をうむことは受け入れられず、AMA設立はあまり意味をなさなかった。この結果、医療は一般の人が行なうものという性格がより強くなったのであった。

その利権を狙った張本人はかの有名な資本家ロックフェラーである。彼は石油産業から製薬産業へ目をつけそこで利権を獲得しようとした。そのために自分たちの薬を医学に関与する人間の間で浸透させることが必要不可で、そのためには薬を使用する科学的な医学が中心的な地位を占めることが条件であった。だから当時中心的な地位を占めていた代替的な治療を行う大学は煙たかった。

結果、医学部の水準を図ると称して代替的な治療、つまり薬を使わない医療を教える医学部に次々と不適当であるという根拠のない烙印を押した。これでアメリカの医療が完全に薬で症状を抑えるアロパシー中心になった。

また、アメリカ医師会というアロパシーを礼賛する団体がいることをロックフェラーは発見する。彼はここに援助をすることで自分の開発した薬が使ってもらえ、利潤が得られた。同時にレポートによって無理矢理アロパシー中心になったアメリカの医療業界では、アロパシーを信奉するAMAは独占的な地位と絶大な権力を得られた。

だからAMAは従来まで医療サービスを行えた民間の医療提供者や自然治癒を奨励するものに対して制限をかけられて、一種の参入障壁を築くことができたのである。つまり、フレクスナー・レポートは、ロックフェラーはもちろん、1847年以来あまり絶大な権力をもつに至らなかったAMAにとっても都合がよいものであった。

付け足しておくが、薬を用いた医学を教えない大学は生徒が集められず窮地に陥ったため閉鎖を余儀なくされた。よって1910年までに457あった医学校の数は激減する。

1874年にアメリカのアンドリュー・テイラー・スティルがオステオパシーを創始しました。

1876年にアメリカのジョン・ハーヴェイ・ケロッグ博士がアメリカでシリアルによる朝食や菜食主義、浣腸療法などを提唱しました。ケロッグ・コーンフレークのケロッグ博士です。

1895年にアメリカのダニエル・デビット・パーマーがカイロプラクティックを創始しました。ダニエル・デビッド・パーマーはマグネティズムの治療家でした。1774年にウィーンの魔術師といわれるフランツ・アントン・メスメルが動物磁気を発見し、当時はマグネティズムの治療家がたくさんいました。

1895年にアメリカのジョン・ハーヴェイ・ケロッグ博士が『The Art of Massage: A Practical Manual for the Nurse, the Student & the Practitioner 1929(マッサージの技術)』を出版してマッサージをアメリカに普及しました。

1902年、ベネディクト・ルストがナチュロパシーをニューヨークで創りました。ドイツは19世紀からホメオパシーを創ったザミュエル・ハーネマンやクナイプ水治療法を創ったセバスティアン・クナイプが活躍していました。ナチュロパシーの創始者、ベネディクト・ルストはドイツのセバスティアン・クナイプによってアメリカのニューヨークにクナイプ自然療法の普及のために派遣されました。そして、1890年の世紀末のニューヨークで健康食品店をはじめました。1901年にはニューヨークのホメオパシー大学を卒業し、1902年にはオステオパシーの学位も取得します。そして、すぐにニューヨークに世界初のナチュロパシー学校を創設しました。それでベネディクト・ルストはアメリカ・ナチュロパシーの父と呼ばれます。

1900年以前のアメリカにはマグネティズムやオステオパシー、カイロプラクティック、マッサージ、ナチュロパシー、ホメオパシーなどの医学校が乱立していました。医療資格もM.D(医師)だけでなく、D.C(ドクター・オブ・カイロプラクティック)やDPM(足病医)、D.O(オステパシー医師)、N.D(ナチュロパシー・ドクター )などたくさんありました。当時はM.D(医師)よりもD.H.M(ホメオパシー医師)のほうが2倍以上、多かったのです。

そこで、ロックフェラー財団とカーネギー財団は1847年に創られたアロパシー(薬物療法)中心のアメリカ医師会(AMA)を援助しはじめます。1904年、ロックフェラーのスタンダード石油は第1次世界大戦に敗北したドイツでIGファルベン・インダストリーという製薬会社に出資します。これはアスピリンを創ったバイエル製薬や世界最初の梅毒治療薬サルバルサンを創ったヘキストなど医薬品化学メーカーを合併したドイツの会社です。

このドイツ企業、IGファルベン・インダストリーという会社は優生学を奨励する論文に賞を出し(資金はカーネギー財団)、ナチスドイツを支援する中心企業となり、アウシュヴィッツ収容所を実際に運営しました。戦後、IGファルベンの経営者たちはIGファルベン裁判で戦争犯罪を追求されますが、多くは無罪となりました。戦後はバイエル製薬やヘキストなどに分割されました。ドイツ製薬企業のオーナーはアメリカ・ロックフェラー家でした。ロックフェラー財閥、カーネギー財閥、ハリマン財閥、ヴァンダービルト財閥やその手下であるフォード自動車のヘンリー・フォードがヨーロッパとドイツで優生学と反ユダヤ主義を煽った膨大な記録を調べた際には驚愕しました。アメリカこそが反ユダヤ主義のスポンサーだったのです。最初は信じられませんでした。

カーネギー財団はエイブラハム・フレクスナーに依頼し、フレクスナーはアメリカに存在する155校の医学校を実際に訪問し、1910年に「アメリカとカナダにおける医学教育(Medical Education in the United States and Canada)」というタイトルのいわゆるフレクスナー報告書を出版します。

1910年のフレクスナー報告書はアメリカに存在する155の医学校のうち120校を廃校にすることを提案します。そして、ジョン・ホプキンス大学を絶賛しました。フレクスナー報告書はロックフェラー財団からの5億ドルの寄付金によって実行にうつされます。それまでの医療職は徒弟制度で学んでいました。フレクスナーは学校で解剖学や生理学を学び、正規の教育を受けた「専門職」を提案しました。

アメリカは医学校を州の法律で規制しはじめ、1910年には155校あった医学校が1920年には85学校になり、1944年には69校までに減少して代替医療の学校は認可を受けられなくなりました。

「専門職養成としての教員養成 : 「フレクスナー神話」の継承と革新の視点から」
渡辺かよこ
『教職課程研究』 (11), 63-72, 2016-03-18
http://aska-r.aasa.ac.jp/…/1…/5856/1/0027011201603063072.pdf

上記は、2016年3月に発表された教育学の最前線です。フレクスナー報告によって専門職ができました。カーネギー・ロックフェラーの資金で出来たエイブラハム・フレクスナーの勧告、フレクスナー報告は、医師・弁護士・教師といった「専門教育・専門職」をアメリカで形成していきます。

そして、エイブラハム・フレクスナーの兄であるサイモン・フレクスナーはジョン・ホプキンス大学医学部教授であり、1901年に設立されたロックフェラー医学研究所の初代理事長でした。日本の野口英世をスカウトして共同研究したのがサイモン・フレクスナーです。フレクスナーの兄はロックフェラー家と抜き差しならない関係です。つまり、フレクスナー報告書は製薬会社を独占していたロックフェラー家による利益誘導なのです。

かくして徒弟制度で教育されてきた医療の専門職は1910年代から学校で教育されることになりました。そして優勢だった代替医療は逆転され、アロパシー医学(薬物療法)が優勢になりました。

さらに1916年にロックフェラー財団の寄付で、ジョン・ホプキンス大学に世界初の衛生学・公衆衛生学の大学院が創られます。もともと1909年からロックフェラー財団の医療部門であるロックフェラー衛生委員会が1909年から鉤虫の予防キャンペーンを行っていました。この組織が1913年に国際保健委員会と名前を変えて、ジョン・ホプキンス大学の公衆衛生学と協力して、野口英世の黄熱病やマラリアの研究を支援していました。そして国際保健委員会から世界保健機関(WHO)が1946年に生まれました。ロックフェラー家が文字通り、現在の公衆衛生学という学問を創ったのです。

1900年以降、薬物療法、公衆衛生学、放射線医学は医療の世界の風景を変えていきました。なぜアメリカにM.D(医師)以外にD.C(ドクター・オブ・カイロプラクティック)やD.P.M(足病医)、D.O(オステパシー医師)、N.D(ナチュロパシー・ドクター)などの多様な医療資格があるかを説明できる人はいません。1900年以前の世界の記憶を失ってしまったからです。

そして、1910年にフレクスナー報告書が出る前は、米国にはホメオパシーの最大のパトロンがいました。その大富豪の父はボタニカル・フィジシャン(植物医師)と名乗り、民間薬エリクシル(秘薬)を売る仕事をしていました。初代ジョン・D・ロックフェラー・シニアです。

初代ロックフェラーの父、ウィリアム・“ビル”・ロックフェラーは生涯を放浪して過ごし、無免許のハーブ医師だったため、通称、ドク・ロックフェラーと呼ばれました。大ほら吹きで女好きのいい加減な父親はビッグ・ビルやデビル・ビルとも呼ばれ、重婚と婦女暴行事件も起こしています。

初代ジョン・D・ロックフェラーの父親のスキャンダルをかぎつけたジャーナリストのピューリッツアーは大富豪の父親の行方を高額の懸賞金をつけて探しましたが見つけることができませんでした。結局、ヘビの油売り専門家であるドク・ロックフェラーことウィリアム・ロックフェラーは偽名である「ビル・リビングストン」を使って、死ぬまで放浪のヘビの油売り、ハーブ医師、植物医師だったのです。大富豪のいい加減な父親が1906年に亡くなり、1910年にはカーネギー財団とロックフェラー財団が支援したフレクスナー報告書が出版され、米国ではホメオパシー医師が絶滅させられました。これが米国におけるホメオパシー絶滅の歴史です。

【参考文献】
「日本の生命科学の展開とロックフェラー財団」
溝口 元 日本学術会議
『学術の動向』Vol. 13 (2008) No. 5 P 89-94
https://www.jstage.jst.go.jp/article/tits1996/…/13_5_89/_pdf

「研究史展望 : ロックフェラー財団の医療・公衆衛生活動と文化外交」
平体 由美
『札幌学院大学人文学会紀要』 (92), 111-118, 2012-10
http://sgulrep.sgu.ac.jp/…/bitst…/10742/1714/1/JB-92-111.pdf

http://www.huffingtonpost.jp/…/america_history_b_11422252.h…

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