鍼灸と気功と科学が親密だった頃

 
丹澤章八・尾崎昭弘監修
医道の日本社、1997年
 
 
この文献は名著だと思うのですが、冒頭の8ページに「経穴から出る極微弱生物フォトン発光」があり、東北工業大学情報処理技術研究所の神正照先生の論文です。東北大学で「生物フォトンを用いた経穴の部位および状態の計測に関する基礎的研究」という博士論文で工学の博士号を取得されました。レーザー鍼や鍼灸治療後の生物フォトンの変化の研究を多数、発表されています。
 
そして、生物フォトンに関しては、気功の外気功の発功状態での変化が日本と中国で研究されてきました。
 
 
「気功時のヒトの手における生物フォトンと温度変化」
『国際生命情報科学会誌』2000 年 18 巻 2 号 p. 418-422
 
 
また、『鍼灸最前線』には、64ページに東京電機大学工学部の町好雄教授が「気功のための各種計測」を書かれています。いまでは信じられないことですが、1990年代は『鍼灸最前線』に気功の科学的研究が掲載されていたのです。
 
1950年代に劉貴珍先生が「気功」という言葉を作り、さらに中国共産党幹部の心をとらえました。劉貴珍先生の「気功」と丸山昌郎先生の『経絡の研究』が中国の承淡安先生に翻訳されたことが共産中国での1950年代の中国伝統医学の復権と中医学の成立につながりました。しかし、文化大革命のなかで老中医や鍼灸名医たち、気功の劉貴珍先生は弾圧を受けます。
 
 
1979年から1980年代に文化大革命の終わった中国で第2次気功ブームが起こります。ここでは物理学者の銭学森氏など核物理学や量子力学の研究者が中心です。1979年に上海原子核研究所の顧涵森先生と林厚省先生の二人が「外気」を科学的に測定した論文から外気功ブームが起こり、銭学森の「人体科学」「人体特異効能」の研究と一緒に第2次気功ブームが起こったのです。
 
当時は、思想家でもあり文筆家であった津村喬先生や哲学者の湯浅泰雄先生、心身医学の池見酉次郎先生、間中喜雄先生などの超一流の文化人・哲学者・知識人と町好雄先生や昭和大学の武重千冬先生などの超一流の科学者、ソニー創業者の井深大氏など超一流の経済人が気功に関心を寄せていました。この背景には、1980年代は日中平和友好条約の田中角栄の田中派が支配する日本の日中友好の雰囲気もありました。ここで「超能力系の怪しい気功」も大ブームになり、中国から多くの留学生が日本で「即席気功師」となった歴史があります。
 
 
「越境する気功の文化的価値の変化について : 日本に滞在する中国人気功師のライフヒストリーから」
木内明
『アジア文化研究所研究年報』 -(46), 184-173, 2011
(オープンアクセス)
 
 
上記論文では、中国から日本に留学し、気功整体院のフランチャイズ・チェーン店をつくった留学生のライフヒストリーが描写されています。超能力ブームや質の低いインチキ気功師のため、気功は次第に社会の信頼を失い、日本では1995年のオウム真理教事件、中国では1999年の法輪功事件によって社会の雰囲気が一変しました。
 
日本においては、町好雄教授が気功の科学的研究の中心人物でしたが、2019年に亡くなられました。カウンターカルチャーとしての気功については文化人の津村喬先生が中心人物でしたが、2020年に亡くなられました。1980年代の日中友好の雰囲気も消失しています。1980年代から1990年代の気功ブームを支えた一流の文化人・科学者・経済人は、ほとんどが鬼籍に入られました。「気功師」の供給源であった中国では、2004年から体操化した健身気功が中心となります。つまり、1980年代から1990年代にかけての気功ブームの背景となった社会的諸条件はすべてなくなったわけです。
 
私は劉貴珍先生の気功と丸山昌朗先生の経絡現象の研究があったからこそ、中医学鍼灸があったのだと思っています。わたし個人の鍼も灸も按摩も気功技術が基礎にあるので、気功の良さをセミナーでお伝えするのが一番楽しいです。
 
いま振り返ると、いろいろな偶然が重なって沸騰するようなすごい時代を体感できたことは幸運でした。1990年代から2020年代にかけて気功を学び続けたことは自分の財産であり、この時代の最良の遺産を伝えていくことができればと願います。
 
 

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