政治家、崔月犁と1982年中国憲法21条の改正と日中友好の文化

 
4人、立っている人、テキストの画像のようです
 
 
中国の衛生部長(日本の厚生労働大臣に相当)だった崔月犁さんに関する記事です。
 
中国では、文化大革命以前に中医医院は371カ所でしたが、文化大革命後には170数か所に減少して西洋医学中心になっていました。
 
1949年の中華人民共和国の建国時に、鍼灸は毛沢東の盟友であり、西洋医学派鍼灸の朱璉女史が鍼灸業界の中心でした。
 
1955年頃から承淡安先生や任応秋先生、秦伯未先生、鍼灸の陸痩燕先生などの伝統医学派が反撃して「弁証論治」という新学説を確立します。
 
また、1955年に劉貴珍先生が河北省唐山に気功専門機関である唐山気功療養所をつくり、中国共産党幹部の支持を得ます。
 
1966年からの文化大革命で任応秋先生は「反動学術権威」の帽子をかぶせられ、紅衛兵には「24匹の牛鬼蛇神」のトップとして批判されます。鍼灸弁証論治の陸痩燕先生は上海中医学院内で拷問死し、気功の劉貴珍先生は便所掃除係になりました。
 
文化大革命で孔子廟は破壊され、仏教・禅寺の少林寺は荒れ寺となり、中国伝統医学の実践者は便所掃除係にされ、農村に下放され、拷問されたり死亡した方も多いです。
 
このような状況下で、政治家、崔月犁さんは衛生部長となります。
 
最大の業績は、1982年に憲法21条に「国家は現代医学と伝統医学を発展させる」という一文を憲法に入れたことです。ここから中国伝統医学は中国で復興していきます。
 
1978年には177カ所しかなかった中医医院は1986年には1,120カ所と激増しました。
 
さらに、1989年に崔月犁さんは世界医学気功学会の首席となります。
気功については、1979年から1980年代に文化大革命の終わった中国で第2次気功ブームが起こります。ここでは物理学者の銭学森氏など核物理学や量子力学の研究者が中心です。
1979年に上海原子核研究所の顧涵森先生と林厚省先生の二人が「外気」を科学的に測定した論文から外気功ブームが起こり、銭学森の「人体科学」「人体特異効能」の研究と一緒に第2次気功ブームが起こったのです。
 
日本でも当時、思想家でもあり文筆家であった津村喬先生や哲学者の湯浅泰雄先生、心身医学の池見酉次郎先生、間中喜雄先生などの超一流の文化人・哲学者・知識人と町好雄先生や昭和大学の武重千冬先生などの超一流の科学者、ソニー創業者の井深大氏など超一流の経済人が気功に関心を寄せていました。
 
この背景には、1980年代の日中平和友好条約の田中角栄の田中派が支配する日本の日中友好の雰囲気もありました。
 
さらに崔月犁さんは、日本の元A級戦犯である笹川良一と笹川医学奨学金を設立しました。2,300人もの医学生たちが日本に留学し、日中の知識交換をおこないました。
 
1980年代から1990年代にかけて日本と中国は文化交流し、その中から「中国伝統医学」と「気功」は熟成され洗練されていきます。
その完成品が2000年代以降にアメリカなど西側世界に普及していくことになりました。
 
1980年は41年前、1990年は31年前の話です。伝統医学は文化や政治と密接であり、離すことはできないと感じます。
 
 

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