インドの鍼の歴史

2022年3月25日
「鍼:インドと中国の友好の懸け橋」
Acupuncture — a bridge of friendship between India, China

以下、引用。

1959年、ドクターB・K・バスがウエストベンガル州のコルカタ市にインドに最初に鍼を伝えた。

インド鍼灸の父、ベジャル・クマール・バス先生は、現在のバングラデシュ(当時はイギリス領インド帝国)のダッカ近郊に生まれ、インド独立運動アヌシラン・サミティのメンバーでした。アヌシラン・サミティは当時はインド独立過激派でしたが、後にガンジーの影響で非暴力化した組織です。

1937年に盧溝橋事件が起こり、日中戦争がはじまります。
中国の朱徳将軍はインド国民会議のネルーに医師の派遣を要請しました。
インド国民会議のチャンドラ・ボーズは友好のために中国に3人の医師を派遣し、その1人がバス先生でした。バス先生は1938年から1943年まで中国に滞在しました。

もう1人有名なのは、コトニス先生です。コトニス医師は中国人看護師と結婚し、娘にインド印度の「印」と、中華の「華」から「印華」と名付け、インド中国の友好を願いますが、次の年に32歳で亡くなりました。

当時、カナダ人外科医のノーマン・ベチューンがいました。べチューンは自身も結核で苦しみ「結核は貧困の病であり、貧困を無くす以外に結核に勝つ方法はない」と考え、貧富の差の無い医療を求め、スペイン内戦で人民の側に立って医療活動を行い、1938年には日中戦争で苦しむ中国の人々のために医療活動を行い、そこで亡くなりました。

中国はべチューンを英雄としてべチューン記念病院を設立し、その院長となったのがインドのコトニス医師です。べチューン医師とコトニス医師は今も尊敬され、記念碑には献花がたえません。本物の英雄がかつてはいたのです。べチューンは、毛沢東に中医師(伝統医師、当時は『中医』ではなく『国医』と呼ばれていた)の活用を進言しています。

ベジャル・クマール・バス医師は、1943年にインドに帰国すると、32歳で亡くなった故コトニス医師を記念したコトニス記念委員会を立ち上げます。
そして貧しい人たちの救援活動を続け、1958年に中国を訪問します。

ベジャル・クマール・バス医師は副鼻腔炎に苦しんでいたのですが、中国で鍼灸治療により副鼻腔炎が劇的に改善したことから鍼灸を学び始めました。

1959年からバス医師は中国で本格的に鍼灸を学びます。インドに帰国すると、ウエスト・ベンガル州のスラム街でコトニス記念委員会を通じて貧しい人たちを鍼灸で治療し続けました。

1973年にはふたたび、中国で鍼麻酔の技術を学びます。

1977年にウエスト・ベンガル州でインド鍼協会(AAI)が創立され、ベジャル・クマール・バス先生が初代会長となります。

1987年にインド鍼協会の努力で、ウエスト・ベンガル地方政府はカルカッタで鍼クリニックをつくりました。

1996年にウエスト・ベンガル地方政府は、ウエスト・ベンガル鍼システム法案により、3年半の鍼治療コースの学位をもった認証鍼師と、200時間のドクターコースを受けた認証医師に鍼をすることを認めました。

2009年に鍼の国家連絡委員会が出来て、政府と交渉しはじめました。

2015年にインドのウエスト・ベンガル州とマハーラシュトラ州で鍼が法的に認められました。

2018年8月にパンジャブ地方の首都ニューデリーの国立インディラ・ガンディー・オープン大学が鍼の教育をはじめました。

2019年2月にインド連邦政府が鍼を独立した医学システムとして承認しました。

もし、 ベジャル・クマール・バス先生がウエスト・ベンガル州でインドの人々のために鍼灸で奉仕し続けていないなら、おそらくインドにおける鍼灸はまったく違った歴史をたどっていたのではないかと感じました。

以下、引用。

1973年、バス医師は中国を訪れて新しい鍼麻酔の技術を学んだ。

最初からバス医師は鍼を医師たちに広げようとして無料で医師たちに教え、広く大衆に科学の温惠をひろめようとした。

バス医師はコトニス記念委員会とインド鍼協会をつくり、医療ミッションの理想のために自宅と多額の金銭をウエストベンガル地方政府に、鍼灸の発展のために寄付した。

コトニス記念委員会のリーダーシップのもとで、無料ヘルスサービスクリニックは鍼をおもに提供した。鍼は非常に低額で、多くの症状に効果があるからである。

コトニス記念委員会は、多くのはだしの医者の鍼師をうみ、お金をとらずにクリニックを運営したとガンタイト医師は述べる。

インドのコルカタ(カルカッタ)などで「はだしの医者」を名乗る鍼師たちが貧しい人たちのために鍼をしているのを何度も動画で見たことがあります。

インド鍼灸の父、ベジャル・クマール・バス先生は、コトニスやベチューンの理想を継いで人材をつくり、次の世代につなぎました。人類に貢献する大事業です。

インドの隣、スリランカから1974年に中国に留学したアントン・ジャヤスリヤ先生は、鍼麻酔の技術をスリランカで普及し、はだしの医者の理想から貧しい人たちを助け続けました。アントン・ジャヤスリヤ先生は、1978年にアルマアタ宣言のアルマアタ会議に参加します。

『アルマアタ宣言』

「健康は基本的人権である」
「先進国と発展途上国の健康の不平等は受け入れられない」
「プライマリ・ヘルス・ケアは西洋医学も伝統医療プラクティショナーもチームとして共に働く」
「軍事紛争に浪費されている資源をより良い使い方をすることで、世界の人々に健康を達成する」

スリランカのアントン・ジャヤスリヤ先生は、アルマアタ宣言に死ぬまでこだわられていました。

1974年にアメリカの黒人解放団体、ブラックパンサーは中国医学を学び、サウスブロンクスのスラム街でリンカーン病院の医師、マイケル・スミスが貧しい黒人のドラッグ依存症へのメサドンの代わりに中国式の耳鍼を用い、現代の耳鍼、NADAプロトコルとなりました。

鍼麻酔時代で忘れられないのは、ポーランドのズビグニュー・ガルヌスフスキ先生です。

ズビグニュー・ガルヌスフスキ先生は、ヤギェウォ大学に在学中だった第2次世界大戦中、ナチスドイツに対して、森の中のパルチザン(ポーランド抵抗軍兵士)となり、「秘密の大学(Uniwersytet Latający=さまよえる大学)」をつくり、多くの医師や看護師を育てました。
軍事作戦にも参加し、多くのメダルを表彰されています。
1966年からはアフリカのニジェールで医師として働き、さらにシンガポール・日本・香港を旅して東洋医学に興味を持ち、1971年から1981年にはパリ・ウィーン・モンゴルのウランバートル、北朝鮮の平壌を転々とながら鍼の研究を行い、1981年には中国・南京で鍼の国際コースを修了しています。
1978年にはポーランド初の鍼クリニックを創設し、1986年には国家に認められました。
世界鍼灸学会の副会長となり、1998年にワルシャワで亡くなりました。

インド鍼灸の父・ベジャル・クマール・バス先生、スリランカのアントン・ジャヤスリヤ先生、NADAプロトコルのマイケル・スミス先生、ポーランドのズビグニュー・ガルヌスフスキ先生など、戦争と格差に満ちた世界で、鍼灸という技術を通じて人間としての理想を追求して生きた先達がかつては居たのです。
鍼灸は、そういう可能性をもった技術だと思います。

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