【BOOK】『脳のなかの天使と刺客ー心の健康を支配する免疫細胞』

 
ドナ・ジャクソン・ナカザワ著 夏野徹也 訳
白揚社 (2022/9/21)
 

 
 
1906年にスペインの神経学者、イ・カハールはニューロンの研究により、イタリアのゴルジとともにノーベル医学賞を受賞しました。
 
1920年にイ・カハールの弟子であるピオ・デル・リオ・オルデガがミクログリア細胞を発見し、命名します。
 
2020年にアメリカで出版されたドナ・ジャクソン・ナカザワさんの『脳のなかの天使と刺客ー心の健康を支配する免疫細胞』は、2000年代から2010年代にかけてのミクログリア細胞と神経炎症に関する発見の物語です。
 
現在、ハーバード大学の神経生物学者、ベス・スティーブンス博士とベン・バラス博士が、2007年に最初の画期的な研究を発表しました。出生後の脳神経細胞の「刈り込み」は補体によって起こるというものです。この補体による刈り込みは、ミクログリア細胞による貪食が関係していることが5年後の2012年に証明されます。
 
 
2007年ベス・スティーブンスとベン・バラス
『セル(CELL)』
「古典的な補体カスケードは、中枢神経シナプスを除去する」
The classical complement cascade mediates CNS synapse elimination
Beth Stevens Ben A Barres
Cell. 2007 Dec 14;131(6):1164-78.
 
 
2012年にベス・スティーブンス博士はドロシー・シェーファー博士と『セル』の『ニューロン』にミクログリアによる脳内の貪食をはじめて観察したことを報告しました。これがミクログリア革命のはじまりです。
 
 
2012年5月ベス・スティーブンス、ドロシー・シェーファー
『ニューロン』
「ミクログリアは、活性依存および補体依存により生後神経回路を形成する」
Microglia sculpt postnatal neural circuits in an activity and complement-dependent manner
Dorothy P Schafer Beth Stevens
Neuron. 2012 May 24;74(4):691-705.
 
 
これに前後して、ユニバーシティ・カレッジ・ロンドンの神経科学者、ジェフリー・バーンストックがプリン受容体を2000年代に研究しました。プリン受容体の一種がP2Xレセプターです。
 
2010年にロチェスター大学のマイケン・ネダーガードがナンナ・ゴールドマンと『ネーチャー・ニューロサイエンス』に歴史的な鍼の研究を発表しました。鍼は神経を刺激するのではなく、皮膚・皮下組織・結合組織を歪ませることでケラチノサイトからATPが放出されて、P2X3受容体を介して鎮痛作用を発現するというのです。ATPが鍼の鎮痛に重要な役割を果たすことが判明しました。
 
 
2010年「アデノシンA1受容体を介した局所の鍼の抗侵害受容的効果」
Adenosine A1 receptors mediate local anti-nociceptive effects of acupuncture
Nanna Goldman,Maiken Nedergaard. et al.
Nature Neuroscience 13, 883–888 (2010)
 
 
2012年に『ネーチャー』アデノシン鎮痛の鍼論文の著者であるマイケン・ネダーガードは、脳からの老廃物を排出するリンパ系と翻訳されるグリンパティック・システムを発見しました。
 
 
A paravascular pathway facilitates CSF flow through the brain parenchyma and the clearance of interstitial solutes, including amyloid β
Maiken Nedergaard
Sci Transl Med. 2012 Aug 15;4(147):147ra111.
 
 
この『脳のなかの天使と刺客』では、グリンパティック・システムとは異なる、2015年、髄膜リンパ管の発見をとりあげています。
 
2015年にアントワーヌー・ルボー博士とジョナサン・キプニス博士は『ネーチャー』に硬膜・クモ膜・軟膜以外の第4の髄膜リンパ管の発見を報告しました。これは歴史的大発見といわれました。
 
 
2015年「中枢神経系に存在するリンパ管の構造的機能的特徴」
Structural and functional features of central nervous system lymphatics
Antoine Louveau
Jonathan Kipnis
Nature. 2015 Jul 16; 523(7560): 337–341.
Published online 2015 Jun 1.
 
 
同時期の2014年に、アメリカの超一流病院であるベス・イスラエル病院のアーヴィング・キルシュ医師が「セロトニン選択再取り込み阻害薬(SSRI)などの抗うつ薬の効果はプラセボ効果である」という論文を発表して、国際的に大きな話題となります。ここから「SSRIなどの抗うつ薬は一部のうつ病患者にしか効かず、うつ病のセロトニン仮説は間違いではないか」という議論が活発化しました。そこから「うつ病の炎症仮説」が有力になっていきます。
 
 
2014年「抗うつ薬とプラセボ効果」
Antidepressants and the Placebo Effect
Irving Kirsch
Z Psychol. 2014; 222(3): 128–134.
 
 
また、脳しんとう、慢性外傷性脳症、外傷性脳損傷によるミクログリア神経炎症が取り上げられています。
 
脳しんとうの世界に科学のメスが入りはじめたのは、2005年にベネット・オマルという医師がNeurosurgeryという医学雑誌にマーク・ウェブスターというNFLのスーパースターの脳の解剖所見を発表してからです。
 
ウィル・スミス主演の2015年ハリウッド映画『コンカッション』で有名になりました。
アメフトのマーク・ウェブスターはNFLのスティーラーズのスーパースターでしたが、パンチドランカーのような奇行が目立ち、ホームレスとなり死にました。
 
ベネット・オマルが解剖したウェブスターの脳は、アルツハイマー病とは違うβアミロイド沈着とTauタンパク質の沈着が証明できました。これは慢性外傷性脳症の特徴です。ここから脳しんとうや慢性外傷性脳症、外傷性脳損傷の本格的な研究が始まりました。
 
 
2015年前後のアメリカ鍼灸を調べていたとき、アメリカのNFL選手など脳しんとうに苦しむ人々が鍼を使っていることを知りました。これは2000年代から2010年代のアメリカ鍼灸を調べることで知ることができました。
 
また、南カルフォルニア大学のヴァルター・ロンゴ教授による断食・絶食がミクログリア神経炎症の治療法として紹介されています。
 
 
2015年にヴァルター・ロンゴ教授が「プチ断食は細胞再生を促進する」という研究を発表し、これはわたしも薬膳講座の講師だったころに紹介したことがあります。
 
 
2015年ヴァルター・ロンゴ『セル・メタボリズム』
「断食を模倣した定期的な食事はマルチシステムの再生を促進し、認知能力と健康寿命を向上させる」
A periodic diet that mimics fasting promotes multi-system regeneration, enhanced cognitive performance and healthspan
Valter D. Longo
Cell Metab. 2015 Jul 7; 22(1): 86–99.
Published online 2015 Jun 18
 
 
ミクログリア神経炎症の治療法として、断食以外にも反復経頭蓋磁気刺激法や経頭蓋直流電気刺激もとりあげられており、これも頭皮鍼との関連で注目です。
 
最終章の第15章では、迷走神経電気刺激や腸内微生物叢の悪化が迷走神経を通じて脳に伝わることがミクログリア神経炎症との関連で論じられています。
 
 
この『脳のなかの天使と刺客ー心の健康を支配する免疫細胞』には、鍼という言葉は一度も出てきませんが、まさに鍼があつかっている慢性疼痛、神経炎症、うつ病などの精神症状のメカニズムについて、2012年から2020年に起こった科学革命、パラダイム・シフトを描いています。
 
 
『脳のなかの天使と刺客』には、パラダイム・シフトという言葉のもとになった科学哲学者、トーマス・クーンの「パラダイム・シフトには20年から30年かかる」という名言が紹介されています。
 
20代から30代で学者としてのトレーニングを受けた大学の先生が20年から30年たてば、60代の退職直前となります。これらの学者は若い頃に受けた教育の旧パラダイムから脱却できずに、新パラダイムへの抵抗勢力となりますから、新しいパラダイムの知識が教科書に載るのは、旧世代の抵抗勢力が権力を失い引退する頃になるという意味です。そして、20年から30年かかって教科書に掲載されたころには、新しい知識はすでに30年前の時代遅れになっています。
 
2010年代のミクログリア細胞による神経炎症の発見(2012年)、脳のリンパ廃液ドレナージであるグリンパティック・システムと髄膜リンパ管の発見(2012年・2015年)、脳しんとうによるベータ・アミロイド沈着とTAUタンパク沈着の発見と脳しんとう研究の進展(2005年~2010年代)、迷走神経電気刺激と抗炎症作用の発見(2012年~)などが総合されて、現在のミクログリア神経炎症、慢性疼痛、うつ・不安などの精神症状のパラダイムシフトが起こりました。
 
 
『脳のなかの天使と刺客』で印象的だったのは、研究者たちもナカザワさんも、目の前にいる苦しむ患者さんのために、現在の科学がどのような解決ができるのかという問題意識をもっていたことです。
「その知識は何の役に立つのか」という具体的な問いかけが何度もされていました。だからこそ、旧パラダイムを批判して新パラダイムを産み出すことができるのだと感じました。
 
 
 

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