南宋代の医家、施発著、『察病指南(さつびょうしなん)』の辨七表八里九道七死脉では「七死脈」が掲載されました。
1241年に書かれて鎌倉時代の日本で流行し、南北朝時代から室町時代に復刻され、曲直瀬道三なども研究しています。中国では逸失し、復刻されたのは日本の江戸時代の『察病指南』です。
以下、引用。
七死脉:一、弾石脈は筋肉皮にあり。
『脈経』扁鹊诊诸反逆死脉要诀第五には、死脈として「脈が来るときに弾石であり、去るときに解索のようであれば死す」と記述されています。
弾石脈は『脈経』では「弾石脈は 劈劈急である」と表現されています。
「劈(へき)」とは「雷のつんざく音」や「刀や斧で割る音」だそうですが、これはつたない経験でもわかる気がします。 石を弾くというのはハンマーで石畳をうちつけて割るイメージでしょうか。『察病指南』では「これは肺が絶えた死脈である」としています。
しかし、『素問』平人気象論篇や、『素問』玉機真蔵論篇、『脈経』腎膀胱部では弾石脈は冬の腎絶の脈でした。
《素问·平人气象论》:“死肾脉来,发如夺索,辟辟如弹石,曰肾死。”
《素问·玉机真脏论》:“真肾脉至,搏而绝,如指弹石辟辟然,……乃死。
『脈経』肾膀胱部第五: 肾脉来发如夺索,辟辟如弹石,曰肾死。
現代中医学の文献では「肺腎の気の絶えるのが主病」と書かれています。
「二、解索脈は筋肉の上にあり」
解索脈は動数で散乱してリズムがなく、縄をときほぐしたような状態と言われます。「五臓の絶えた状態」や左右の尺脈にみられるため、腎と命門が衰え、精髄が尽き果てた状態の死脈といわれます。
『素問』の「平人気象論篇第十八」に弾石脈は初出しています。
西晋代、『脈』扁鹊诊诸反逆死脉要诀第五に解索脈、雀啄脈、屋漏脈、蝦遊脈、魚翔脈、偃刀脈、転豆脈などの死脈が初出しました。ただ、七怪脈の釜沸脈は出てきません。
『脈経』 巻四、诊三部脉虚实决死生第八に、「三部の脈が釜中の沸とうしたお湯のようなら、朝にこれを得れば暮れに死す」と「釜沸の脈」の原型のようなものは出ています。
これは日本の内閣文庫が所蔵している宋代、蕭世基の1066年に書かれた『脈粋』でもまとまって死脈が書かれています。この『脈粋』が『察病指南』や『診家枢要』に大きな影響を与えました。九道の脈はありませんが、「弁七表八裏脈形状左右主病法」では七表脈と八裏脈を提唱しています。
「国立公文書館内閣文庫所蔵の脈書『診脈要捷』について」
吉岡広記『日本医史学会雑誌』(2006年)第52巻第1号,110-111頁
南宋の崔嘉彦が1189年に書いた『脈訣』は王叔和の『脈経』をまとめたものです。
ここで、七表脈、八裏脈、九道脈の分類が提唱されたと言われていますが、正確には後世の門人によるもののようです。
「国立公文国立公文書館内閣文庫所蔵の脈書『紫虚崔真人脈訣秘旨』について」
吉岡広記『日本医史学会雑誌』(2008年)第54巻第2号,138頁
1241年に書かれた施発著、『察病指南』の辨七表八里九道七死脉で七表脈、八裏脈、九道脈と七死脈が体系的に記述されたという歴史のようです。
これが、さらに1345年のモンゴル時代、危亦林の『世医得効方』で十怪脈となります。
コメント