出版されたばかりの『医学と儒学』を読みました。
立命館大学の助教である向清清先生が博士論文『「復古」と医学――近世日本医学思想の研究』をベースに日本の古方派医学を論じられたもので、最新研究を概括できる名著だと思います。
江戸時代の東洋医学の歴史を学ぶには儒学、特に宋代の新儒学(宋代理学、朱子学)の知識が必須となります。
儒学は春秋戦国時代の孔子によって創られます。
春秋戦国時代を統一した秦によって焚書坑儒が起こり、弾圧されます。
秦の滅亡後に漢王朝では儒学が政府により採用されました。
しかし、後漢時代から三国志の乱世となり、仏教や道教が興隆します。
魏晋南北朝は儒・仏・道の三教が混淆し、隋唐時代は仏教の絶頂期となります。
宋代の新儒学は朱子学に代表されるように道教や仏教の禅の影響を受け、新儒学(朱子学)として元代(モンゴル帝国)の中国の支配イデオロギーとなります。
日本は鎌倉時代から室町時代には禅宗が興隆していました。
戦国時代の豊臣秀吉の朝鮮出兵の1592年に、李氏朝鮮の儒学者である姜沆は藤堂高虎の捕虜となり、姜沆により伝えられた李氏朝鮮の儒学者、李滉の朱子学と理気二元論が江戸時代の日本の学問の基礎となりました。
金元四大家「養陰派」朱丹渓の『格致余論』は、朱子学の「格物致知」からタイトルをとっています。
江戸時代初期の日本では、政府のイデオロギーである儒学思想は朱子学であり、医学は金元四大家の李朱医学(後世派医学)でした。
しかし、儒学の分野では、京都で伊藤仁斎の古学、荻生徂徠の古文辞学が生まれます。
朱子学(宋学)は本来の孔子の儒学ではなく、「論語を読むことで孔子にかえれ」というのが伊藤仁斎や荻生徂徠の思想でした。
伊藤仁斎の古学に影響を受けた後藤艮山が古方派医学をつくり、その弟子である香川修庵が儒医一本を唱え、陰陽五行説と経絡学説を否定します。
荻生徂徠に影響を受けた吉益東洞は「傷寒論にかえれ」と提唱し、『黄帝内経』と『傷寒論』は別系統の医学だとして、後世の改竄とみなした部分を改変していきます。
日本の伝統医学を学ぶには、この江戸時代の「古学」「古文辞学」と「古方」の関係の知識が不可欠であり、それらを見事に整理したのは、この『医学と儒学』の素晴らしいところです。これは日本伝統医学を学ぶ際の必読文献になると思います。
いっぽうでわたしが思ったのは、『医学と儒学』ではわずか1行程度しか触れられていない部分です。
江戸時代の新しい儒学思想である国学の本居宣長や平田篤胤が『傷寒論』を論じる医師であったことです。
特に医師であった平田篤胤は排他的な平田神道(復古神道)という新しい神道思想を創ります。オカルティストであった平田篤胤の平田神道の思想的潮流が、そのまま排他的な攘夷の思想、明治維新後の国家神道や廃仏毀釈へとつながっていきます。特に明治維新以降、現代までつながる日本のオカルティズムと心霊研究は江戸時代の平田篤胤にはじまります。昭和の軍人たちのオカルティズムと極右思想(そして代替医療)の結合は、平田篤胤のイデオロギーの影響なのです。
わたし自身、宋代儒学の研究からはじめて、江戸時代の古学と古方医学の関係を研究し、江戸時代の古方派医学の親試実験の思想こそが日本伝統医学の本質であり、素晴らしい部分と感じています。
しかし、一方で、親試実験の古方派医学が幕末になると国学や和方(皇方)のような観念的・排他的な方向性に堕し、明治維新の廃仏毀釈や昭和の軍人たちの代替医療オカルティズムへとつながる流れを研究した際には、合理性が極まって非合理性を産む皮肉にシミジミしました。
序 章一 本書の問題意識二 先行研究三 後世派医学と古方派医学四 本書の課題と方法五 本書の構成六 補足 登場する諸用語・概念について
第一部 古方派医家の「復古」第一章 後藤艮山の「古道」――「日用食品」・民間治療法の提唱一 はじめに二 後藤艮山の生い立ち三 「古道」の内実――「未病ヲ養生ガ主ナリ」四 「薬ハ毒物」――「温補」への批判五 「順気」としての治療法六 おわりに第二章 香川修庵の「自我作古」――「日用」の医学全書の成立一 はじめに二 「儒医一本論」について三 「自我作古」としての『一本堂行余医言』四 「日用之薬」としての『一本堂薬選』五 『一本堂薬選』への批判――戸田旭山『非薬選』六 おわりに第三章 山脇東洋の「述而不作」――腑分けの実施と『外台秘要方』翻刻一 はじめに二 「周之職」――腑分けの実施と『周礼』三 「漢之術」とする『傷寒論』四 「晋唐之方」としての『外台秘要方』五 永富独嘯庵における「古医道」六 おわりに第四章 吉益東洞の「古訓」とその展開――「万病一毒論」をめぐって一 はじめに二 東洞の「古訓」三 「疾医」の規範としての扁鵲と張仲景四 東洞の「天命説」五 東洞の処方集・薬物書六 「万病一毒論」と梅毒の治療七 東洞以降――医学における日本中心主義の形成八 おわりに第二部 東アジアにおける医の交流――『傷寒論』の研究と「実用」第五章 明清医学と近世日本医学――越境する医家たち一 はじめに二 明・清代に留学した日本医家三 来日した中国医家およびその活動四 北山友松子の医学と長崎五 おわりに第六章 『傷寒論』研究と東アジア一 はじめに二 張仲景と『傷寒論』三 近世日本における中国の『傷寒論』関係書四 『傷寒論』の日本伝来と研究五 おわりに第七章 『傷寒論』の「実用」――麻疹・痘瘡・腸チフス・風邪の治療から一 はじめに二 麻疹の流行と『傷寒論』三 痘瘡の流行と『傷寒論』四 腸チフスの流行と『傷寒論』五 風邪の流行と『傷寒論』六 おわりに終 章一 「復古」の多様性二 古方派医学の再定位三 医学と儒学四 今後の課題――東アジア医学思想史・交流史研究に向けてあとがき参考文献
巻末附録 医家・儒者の生没年一覧巻末附録 関連年表人名索引書名索引
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