戦前の灸

2004年「日本の歴史上の『国民三里灸運動』の解読」
解读日本历史上的“国民三里灸运动”
黄涛 箱岛大昭 黄鑫
《中国针灸》 2004年10期
http://www.cnki.com.cn/Article/CJFDTOTAL-ZGZE200410031.htm
http://blog.sina.com.cn/s/blog_69db500b0102vzpj.html

中国中医科学院鍼灸研究所の黄涛先生、中国中医科学院で医学博士号を取得された福岡の箱島大昭先生らの研究です。

46歳の原志免太郎先生は1929年に結核の灸研究で医学博士の学位を取得しました。当時の日本は結核が蔓延していました。

以下、引用。

1929年,原志免太郎在东京成立了三里灸实行会(后改称国民保健灸实行会),当时的外务大臣宇垣一成、铁路大臣永田秀次郎等人也参加了该组织。灸法作为当时采用的主流医疗保健手段,具有重要的国策地位,这与当时的日本统治阶层尤其是近卫文磨首相的大力支持分不开的。

原志免太郎先生の三里灸実行会(国民保険灸実行会)に当時の宇垣一成外務大臣や鉄道大臣の永田秀次郎が参加していたというのは凄いです。

昭和7年、日本政府开始输送“满蒙开拓青少年义勇军”到中国的东北地区执行其“开拓和防务任务”,以实现对中国东北的掠夺。在到达中国之前,这些义勇军要先在茨城县内原训练所接受2个月的训练,加藤完治等对3万人进行了以保健和治疗目的的灸疗;代田文志《东邦医学》认为在阵地灸足三里、曲池和风门等穴位,得结核病的士兵较少,即使得病也可很快治愈。

1932年に満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所で代田文誌先生が足三里の灸をしたのも有名な話です。代田文誌先生は1900年長野県生まれで二十歳の頃、結核で喀血し、仏門に入りました。1926年に精神に変調をきたした父親を独習した按摩で治したのをきっかけに鍼灸免許を取得し、1927年に沢田流に入門します。1929年から東京帝国大学で研修生として解剖を学び、1931年からは日本赤十字長野支部病院に研修生として学びながら沢田健先生のもとに通いました。

沢田健先生は「竹内文書」の竹内巨麿の天津教や日本ユダヤ同祖説の酒井勝軍、右翼の大物、頭山満や東洋哲学者の安岡正篤と深い関係にあり、1936年に天津教事件に関わって特高警察に思想犯として不敬罪で逮捕されています。1936年は2.26事件の年です。この2.26事件の黒幕と言われた真崎甚三郎陸軍大将も沢田健先生の患者でした。

1936年に沢田健先生は不敬罪で逮捕され、不起訴となったものの失意から1938年には62歳で亡くなられました。今回の『鍼灸OSAKA』にも、沢田先生のあとで深谷伊三郎先生が開業されたことが書かれていました。

1938年の38歳から1945年の45歳の終戦まで代田文誌先生は茨城県東茨城郡内原村にある満蒙開拓青少年義勇軍内原訓練所の衛生課顧問として灸療所を開設して、そこで働きました。1942年には代田文誌著『灸療雑話』を出版しています。

代田文誌先生の集団施灸については、似田敦先生の『現代医学的鍼灸治療』に素晴らしい記述があります。

「戦時下における集団施灸の効果(代田文誌著「鍼灸読本」より)Ver.2.3」
2018年11月26日『現代医学的鍼灸治療』
https://blog.goo.ne.jp/a…/e/572d8ed33eff104ad4e3580011444a18

以下、引用。

“儿童施灸”是代田文志等人倡导的。他们发现小学生中虚弱儿童特别多,从昭和13年到昭和20年(1938-1945年)代田文志等在长野县的几十所小学进行了灸疗活动,施灸的小学生达数万人之多。“儿童施灸”的对象是虚弱儿童,目的为强身健体,同时施灸治疗项部淋巴肿、肺门淋巴腺炎、扁桃体肥大、遗尿等问题。他以身柱、风门、灵台、孔最为基本穴,遗尿加上中极穴,对小学高年级学生,作为保健目的加用足三里,经过长期施灸,对比了灸之前一年和灸后一年的医药费用,减少了1/3。这对于当时的日本有着极为重要的意义。

代田文誌先生の1938年から1945年にかけて長野県で小学校の虚弱児童を施灸して体質を壮健にしようという活動は、代田文誌著「身柱一穴による小児病の治験」(『日本医学』1938年)として、谷田伸治先生の『このツボが効く先人に学ぶ75名穴』(アルテミシア2009年)171ページに掲載されています。

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