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医史学で読む近現代の韓医学

2008年4月4日『韓医ニュース』
「医史学で読む、近現代の韓医学(3)」
醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (3)

 

慶熙大学の金南一教授の連載です。

醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (1)
醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (2)
醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (3)

1445年に出版された李氏朝鮮の医学の集大成『醫方類聚』は1876年日朝修好条規の際に李氏朝鮮に返還されました。現在は延世大學校の図書館と日本の宮内庁に所蔵されています。

 

1913年に朝鮮医師会が『漢方醫學界』を最初の医学雑誌として発行します。

発行したのは洪鍾哲先生です。1910年が日韓併合です。洪鍾哲先生は景岳全書派の名医であり『経絡学総論』という文献も書かれています。

[近現代 韓醫學 人物史4] 洪鍾哲(1852~1919)

醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (4)

1884年に『方藥合編』が朝鮮で出版されます。
この時代はコレラが流行していました。日本語訳も出版されています。

『方薬合編―生薬と漢方処方のエッセンス』
丁 宗鉄 金 成俊
‎ 医歯薬出版 (1991/1/1)

 

醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (5)

当時の中国では張錫純が『医学衷中参西録』を書き、中西醫匯通學派が盛んでした。
朝鮮でもその流れがあり、舎岩鍼法も書かれた名著『青嚢訣)』を著した南采祐先生も朝鮮の中西醫匯通學派です。

 

醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (6)

日韓併合後の医生制度についてです。

 

醫史學으로 읽는 近現代 韓醫學 (7)

プロテスタント宣教師、ホレイス・ニュートン・アレンがみた韓医学で、1884年の甲申政變についてです。

日本の場合もそうですが、アジアの近代史についてほとんど知識がないです。この時代こそが重要だと思うのですが。

 

【日本漢方】
明治維新で医制が西洋医学体制となります。漢洋脚気相撲で西洋医学と漢方が成績を競いました。

1879年(明治12年)から1883年(明治16年)にかけて激しい漢方存続運動が起こりましたが、明治政府は漢方医の存続を否定します。

1880年(明治13年)に中国・清の楊守敬が来日し、日本の医学古典を収集します。さらに森立之から当時の江戸医学の素晴らしい文献の版木を400円で買い取ると、1884年(明治16年)に『聿修堂医学叢書』として中国で出版します。

1884年(明治17年)には「医術開業試験規則」「医師免許規則」が施行され、1885年(明治18年)に森立之が亡くなると日本漢方は非常に厳しい状態となり、1887年には温知社は解散してしまいます。

1893年(明治26年)には浅田宗伯先生も享年81歳で亡くなられました。

1894年(明治27年)には日清戦争が始まります。

1910年(明治43年)に和田啓十郎先生が『医界之鉄椎 』を出版して漢方の復興を唱えます。

 

【鍼灸】
奥村三策の努力により、1887年に鍼は視覚障がい者の教育で存続します。

奥村三策は1906年の三浦謹之助の明治初の鍼灸論文『鍼治に就いて』でも協力します。

1892年に外科医の大久保適斎が『鍼治新書』を発表します。

1911年に松本四郎平が『鍼灸経穴学』を出版し、1912年に鹿児島針灸専門学校が認可されます。

1902年に長門谷貫之助が日本最初の鍼灸団体である大阪鍼灸会の会長となりました。

法律制度では、1885年に鍼術灸術営業差許方という地方長官による制度ができます。

1910年に按摩術営業取締規則及び鍼術、灸術営業取締規則が公布され、免許鑑札制度となりました。

1892年に群馬県の大久保適斎という外科医が『鍼治新書』治療篇・手術篇という文献を出版しました。

鹿児島鍼灸専門学校初代校長の久木田伊助先生は古典文献を受け継ぎました。

久木田伊助先生は鹿児島に寺子屋式の鍼灸講習所を開き、1912年に鹿児島県知事に認可されました。

1907年には大正天皇が鹿児島に行幸された際に久木田伊助先生は鍼灸治療を行い、金時計を下賜されています。久木田伊助先生の寺子屋時代の弟子が松本四郎平先生です。松本四郎平先生は、1911年に『鍼灸経穴学』(誠之堂)を出版し、さらに1926年に『鍼灸孔穴類聚』を出版しました。

 

 

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