「鍼灸医学史における視力障害者の功績 」
松井 繁『全日本鍼灸学会雑誌』
Vol. 56 (2006) No. 4 P 596-604
奥村三策先生を始めとする視力障害者の先生方の貢献を紹介しています。
奥村三策先生は1864年(元治元年)石川県に生まれました。
1866年(慶応2年)に2歳で両眼失明します。
1871年(明治4年)には旧加賀藩・御鍼立の久保三柳に鍼灸を1880年(明治13年)まで9年間学びます。
1885年(明治18年)に上京します。
1886年(明治19年)に奥村先生は楽善会訓盲亜院に入学しますが、あまりの聡明さに生徒ではなく、按摩科の教員にすぐに採用されました。
1885年(明治18年)に楽善会訓盲亜院は官立校となり、文部省は視覚障害者の鍼灸教育を中止しました。理由は江戸時代の『杉山流三部書』のみで教育されることに問題があるからです。
1886年(明治19年)の12月に楽善会訓盲亜院の主幹となった矢田部良吉は「視力障害者が鍼をしても良いのか?」という質問書を三宅秀に提出します。この時、不適切であるという答えであったなら日本における鍼は滅びていた可能性があります。
1887年(明治20年)7月の『鍼治採用意見書』は、鍼は有効無害で視力障害者にさせても良いというものでした。
1887年(明治20年)9月から鍼教育は再開されます。鍼の存続が決定した瞬間でした。
奥村三策先生は同郷の大井玄洞を通じて三宅秀に働きかけます。さらに矢田部良吉にも働きかけます。『鍼治採用意見書』の内容は、奥村三策先生が1885年(明治18年)に『医事新聞』に投稿したものです。
さらに三宅秀の娘婿で大生理学者の三浦謹之助が1906年に現在の日本医学会にあたる学会で日本最初の科学的研究『鍼治に就いて』を発表した際に鍼を実際にしたのも奥村三策先生でした。
奥村三策先生の『奥村鍼治学』という点字本は柳谷素霊が復刻して序文を書き、1933年に墨字訳されて出版されています。
また、マッサージを日本に導入した際にはドイツ語原書を翻訳解読して暗記して授業にあたっていたようです。
『古今鍼術類集』は点字のみですが、内容は杉山真伝流の百術の解説本です。1912年に奥村三策先生は亡くなります。享年49歳。日本における近代の鍼とマッサージの父です。
2011年:『明治期における 「杉山真伝流百法鍼術」 の成立と変遷について』
大浦宏勝,市川友理『日本医史学会総会一般演題』第57巻 第2号 161ページ。
2011年(平成23年)
日本の鍼灸は明治維新・GHQ占領期と2度の滅亡を乗り切りました。
視力障害者と晴眼者、鍼灸師と医師が協力しなければ、滅びる確率のほうが高かったのです。
漢方も滅亡の危機を古法派・後世派・折衷派が協力して始めて復興に成功しました。
そして、歴史をみると近代以降、西洋医学との葛藤や科学派VS古典派など同じ問題が繰り返されています。メンバーだけが入れ替わり、同じ問題を一から始めます。 誰も賢くならないのです(笑)。
【※マッサージにおける奥村三策先生】
明治時代に軍医で初代日赤病院院長の橋本綱常が大山巌陸軍卿に随行して1884年(明治18年)のヨーロッパ医事制度視察の際にオーストリアからドイツ語のDr. Albert Reibmayr著Die Technik der Massage.(1882年初版)を持ち帰りました。
これを橋本綱常が陸軍軍医総監の長瀬時衝に紹介しました。広島博愛病院の院長だった長瀬は1885年からこれを広島の病院で試して著効を得て、1893年に退官して東京飯田橋で仁寿病院を設立した際にマッサージを治療に用いました。
1895年には長瀬時衝は日本初のマッサージの翻訳本『萊氏按摩新論』(『Die Technik der Massage』Dr. Albert Reibmayr著)を出版しています。
近代鍼灸教育の父と言われる奥村三策先生は長瀬時衝からマッサージを学び、これが現在の日本のマッサージの基礎となったようです。
「Reibmayr のマッサージ術に関する一考察 我が国最初のマッサージ術の特徴」
和久田 哲司, 西條 一止『日本温泉気候物理医学会雑誌』63 巻 (1999-2000) 4 号 p. 205-211
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