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少林寺「回回薬方(中国のイスラム伝統医学古典)」

 

モンゴル帝国時代は色目人といってアラビア、ペルシャ、トルコ、ウイグルが活躍しました。
モンゴル時代、元代から明代のイスラム伝統医学の古典『回回薬方(かいかいやくほう)』には鍼灸門があります。

 

「『回回薬方』の鍼灸門について」
猪飼 祥夫
『日本歯科医史学会会誌』 30(2), 172, 2013-04

 

少林寺にはパスパ文字とウイグル文字表記のモンゴル語と漢語で書かれた石碑もあります。

1261年にパスパ文字を創ったチベット仏教の頂点に立つパクパがモンゴル帝国第5代皇帝、クビライ=カァンに迫られ、チベット仏教の最高奥義を伝えました。その代償として、パクパはチベットの政治的支配、チベット仏教と中国仏教の支配権を握りました。

この時、クビライに伝えられたチベット仏教最高奥義は性的ヨーガだと推測されています。チベット仏教は100年後に高僧ツォンカパが改革を行い、性的ヨーガは観相イメージのみと変革しますが、クビライの頃の性的ヨーガは実践を伴っていました。モンゴル帝国時代に色目人チベット僧パクパの管理下で中国仏教界の頂点に立ったのが崇山少林寺です。

 

「新発現の蒙漢合璧少林寺聖旨碑」
『内陸アジア言語の研究』 8, 1-92, 1993-03

 

2代目モンゴル帝国皇帝オゴデイ=カァンの時代に実力者バトゥの西征があり、ロシア、ハンガリー、ポーランドまでモンゴル帝国は侵攻します。

3代目モンゴル帝国皇帝グユク=カァンの時代にローマ教皇の使者、プラノ=カルピニがモンゴルに来ます。

4代目モンゴル帝国皇帝モンケ=カァンの時代にイスラム・アッバース朝を滅ぼし、クビライに命じて南宋を攻撃します。

 

このモンケ=カァンの時代に、仏教、イスラム教、キリスト教の間で宗教論争がありました。第4代モンゴル帝国皇帝モンケ=カァンは最初、ネストリウス派キリスト教徒でしたが、チベット仏教に改宗した経緯があります。

 

モンケ=カァンはモンゴル帝国の首都カラコルムのネストリウス派キリスト教の教会で仏教徒、イスラム教徒、キリスト教徒を平和のうちに議論をさせました。これはモンケ=カァンが賢君主であったのとモンゴル帝国の寛容さを示しています。さらに、モンケ=カァンの時代には仏教と道教の間で宗教論争がありました。

 

モンケ=カァンが亡くなってから1260年にクビライ=カァンが5代目モンゴル帝国皇帝となり、大元大蒙古国を建てます。

 

5代目モンゴル帝国皇帝、クビライ=カァンの帝師パスパはチベット人であり、1261年にチベット仏教世界と中国仏教世界を統治することが認められました。1269年には「パスパ文字」も創っています。韓国のハングル文字は、このパスパ文字を基にしたという学説があります。1258年に朝鮮半島の高麗はモンゴルに服属し、1274年と1281年には元寇に参加します。

 

このパスパ文字を書いた石碑「少林寺聖旨碑」が1987年、中国・崇山少林寺で日本人研究者によって発見され、チベット仏教僧パスパが少林寺をはじめとする中国仏教界を支配し、崇山少林寺が中国仏教界のトップだったことも判明しました。

 

この1987年に発見された碑「少林寺聖旨碑」の解読は中国史の理解を激変させました。それまでは漢文資料のみから「モンゴル帝国は中国文明の破壊者」というイメージがありましたが、実はモンゴル帝国=元朝は儒教や道教、仏教を手厚く保護した「寛容の帝国」だったのです。

以下、引用。

まさにモンゴルとチベット、中国という3つの糸が、この石碑(「少林寺聖旨碑」)の中に結ばれていた。そして、少林寺こそがそれら全てのむすび目なのであった。
世界の歴史〈9〉大モンゴルの時代 (中公文庫)』p224

 

 

さらに言うなら、インドの達磨さんは西暦500年あたりからインドから少林寺に来て『易筋経』と禅仏教を伝えたと考えられています。 インドとモンゴルとチベットとウイグルとイスラム伝統医学(回医学) を少林寺はつないでいるのです。

 

そして、中国伝統医学はまさに金元時代に変革しました。医学書に関して、金元四大家以降、明・清の時代の医書は圧倒的に面白いです。しかし、元以降の中国史は日本人にとって大変わかりにくいです。最近、その理由がわかってきました。

 

まず、モンゴル帝国以降の中国史はイコール世界史になってしまうことです。中央アジアやイスラム世界、ロシアやインドも合わせて分析しないとモンゴル帝国は理解できません。

 

イタリア・ヴェネティア共和国のマルコ・ポーロまでモンゴル帝国の官僚として登場します。モンゴル帝国になった途端、いままで漢文と儒教の世界だったのが、いきなり範囲が広がります。

 

中国の歴史の中でも『元史』は中国の24史の中でもっとも評判が悪く、書き直しとして『新元史』が書かれたほどです。さらにモンゴル語で書かれた『元朝秘史』やラシードゥッディーンの『集史』などが資料となり、それまでの中国の史書の世界とまったく違います。資料がややこしすぎて、チンギス=ハンのモンゴル帝国やフビライ=ハンの元朝はイメージしにくいです。

 

モンゴル帝国イル=ハン国の首相ラシードゥッディーンは『集史』の著者であると同時にユダヤ医師であり、『王叔和脈訣(脈経)』や『銅人シュ穴鍼灸図経』などの中国医学書を研究して研究書まで書いている医学者であることはあまり知られていません。

 

ラシードゥッディーンが1301年に編集した『集史』は世界の歴史を集めたものです。チンギス・カァン一族の歴史から始まり、ユダヤ人の旧約聖書のアダムの話が続きます。ムハンマド(マホメット)以降のイスラム教の王朝の歴史が続き、さらに中国史、イスラエルの歴史、ヨーロッパのフランク王国などキリスト教国の歴史、インドの歴史ではお釈迦さまも出てきます。当時のモンゴル人の視野の広さには驚かされます。

 

禅の中心地である崇山少林寺は、モンゴル帝国時代に仏教世界の政治的頂点に立ちます。崇山少林寺にはパスパ文字のモンゴル語、ウイグル文字のモンゴル語、漢文をあわせた石碑「少林寺聖旨碑」があり、クビライ=カァンは禅僧・雪庭福裕を崇山少林寺の住職に任命し、これより崇山少林寺の中国政府との歴史が始まります。

 

モンゴル帝国時代は、道教の全真教も絶頂期となります。金代の全真教の開祖、王重陽と弟子の馬丹陽、丘処機が重要で、馬丹陽は『鍼灸大成』の『馬丹陽天星十二穴歌』に名前が残っています。

 

『馬丹陽天星十二穴歌』
「足三里、内庭、曲池、合谷接、委中配承山、太衝、崑崙穴、環跳、陽陵泉。通里並列欠」

 

道教の丘処機はモンゴル帝国のチンギス・ハンと養生問答をして保護を得ました。チンギス=カァンに不老長寿について聞きかれて「衛生の道はあるも、長生の薬はありません」と答えたからです。

 

丘処機の流派が北宗、全真教・龍門派であり、弟子の伍守陽と柳華陽を生みました。 この丘処機の弟子と言われているのが元末から明初の張三豊で、伝説では張三豊が武当山で太極拳を創ったとされ、武当山には今でも武当山道教があります。 道教では『精・気・神』が『三宝』と呼ばれ、修行は『錬精化気・練気化神・練神還虚』のプロセスをたどります。最初の『練精化気』が小周天という督脈と任脈を通じさせるプロセスで、『練気化神』は大周天と呼ばれます。 この道教の内丹術の『精・気・神』が中国伝統医学に入りました。

 

金末・元初の鍼灸家、窦漢卿はフビライ・カァンの皇子の教育係として重用されました。モンゴル帝国=元朝の重臣です。

 

調べて初めてわかったのですが、モンゴル帝国時代=元代を代表する『扁鵲神応鍼灸玉龍経』を書いた王国瑞の父親である王開は窦漢卿の弟子でした。

 

さらに、易水派を代表する羅天益も漢方は李東垣を師匠として、鍼は窦漢卿に学んだようです。羅天益は「東垣鍼法」を残しています(『鍼灸聚英』)。

 

奇経八脈交会穴も具体的な補瀉手技も窦漢卿に始まります。何より得気の本質を最初に論じたのが窦漢卿です。モンゴル帝国時代=元朝の鍼灸の最重要人物です。窦漢卿は、儒学と『授時暦(元代の暦)』で有名な許衡や姚枢と並ぶようなモンゴル帝国を代表する大知識人です。

 

窦漢卿は金末に難民となり、南宋に亡命し、宋代の儒学者、程伊川や朱子の「宋代理学」を学び、モンゴル帝国で講義しました。

 

この程伊川の「宋代理学」理気二元論というのは、儒学に仏教の論理と道教の「静座(せいざ=座禅)」を導入し、格物窮理して脱然貫通することを目指しました。つまり、悟りの状態を目指すのであり、禅に似ています。

 

ところが、日本に入って現在の学校の歴史の教科書で朱子学を勉強する時は「徳川幕府の支配的な儒学」と勉強しますから、現代日本人は静座というボディワークをベースにした朱子学や宋代理学の意味が理解できない状態になります。朱子学の格物窮理から「物理学」という日本語ができたのに。

この宋代理学を継承した朱子学が江戸幕府でも李氏朝鮮でも支配者イデオロギーの官学となり、それに対抗した王陽明の知行合一の陽明学が幕末の維新の原動力となりました。

現代日本人は宋代理学も理気二元論も理解できていないため、江戸時代の思想的な流れが全くわからない状態になっています。

 

窦漢卿(とうかんけい)は隠者である「宋子華」に奇経八脈交会穴を学びました。また、山東省の名医、李浩に鍼を学び、さらに道教・全真教の丘長生に学んだという伝承もあります。

窦漢卿は宋代理学(儒学)や道学(道教)や仏教の知識をもった金元時代を代表する大知識人であったことがわかりました。

 

ついでに言うなら、モンゴル帝国はさらにティムールを通じてペルシャとアラビアの文化を融合させつつ北インドにも侵入し、インドをイスラム化させ、ムガル帝国(モンゴル帝国)を築きました。

インドのイスラム・ムガル帝国の宮廷ではペルシャ語が公用語として使われており、ペルシャ語への翻訳局もありました。

インドのチャクラの歴史を調べていて、中世アラビア世界の数学者・物理学者として知られるビールーニーがパタンジャリの『ヨーガ・スートラ』を1030年頃にアラビア語に翻訳していると知った時は驚きました。

ハタ・ヨーガの『ゴーラクシャナータ』や『ゴーラクシャータカ』もペルシャ語訳されいて、7つのチャクラ、スシュムナー管・イダー管・ピンガラ管などのナディ、プラーナ、クンダリニーなどの知識も翻訳されていました。ハタ・ヨーガの基礎文献『ゲランダ・サンヒター』、『ハタ・ヨーガ・ブラディピカー』、『シヴァ・サンヒター』もペルシャ語に翻訳されていたそうです。つまり、ハタ・ヨーガの基礎文献と基礎知識はすべてペルシャ語訳されているのです。

「ヨーガの実践とペルシア語訳『ゴーラクシャシャタカ』」
榊和良『東洋文化研究所紀要』 第163冊, 2013.03, pp. 80(157)-108(129)

「『甘露の水瓶(Amrtakunda)』とスーフィー修道法」
榊和良『東洋文化研究所紀要』. 139冊, 2000-03, p. 272-239

 

このイスラムのスーフィー修行法を論じた論文にはヨーガの「7つのチャクラ」が明記されています。第1チャクラと第2チャクラの位置は違いますが、
第3チャクラ:ヘソ
第4チャクラ:心臓
第5チャクラ:のど
第6チャクラ:眉間
第7チャクラ:脳天
と現代のチャクラ理論とほぼ一致しています。

モンゴル帝国時代こそが、中国伝統医学とインド伝統医学の一大転換期だったようです。

 

モンゴル帝国により中国では宋が滅び、イスラム帝国バクダード・アッバース朝も滅亡し、カリフが処刑されました。インドもイスラムの侵入によりインド仏教が滅亡しました。そして、チベット僧パスパが統括する中国・崇山少林寺が中国仏教世界を支配したのがモンゴル帝国の時代なのです。

 

 

 

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