吉益東洞先生の『医断』論争

 
大塚敬節「近世前期の医学」
岩波書店1971年 512ページ
 
 
 
 
 
吉益東洞の『医断』が巻き起こした議論に関するまとまった記述がわかりやすいです。
 
以下、引用。
 
東洞に最も激しい攻撃を加えたものは山脇東門と亀井南冥である。父(山脇東洋)の推挙によって出世の糸口をつかんだ東洞を、死んだら鬼の戸籍に名をつらねる男だろうと罵倒し、『東門随筆』の冒頭が東洞の攻撃で幕開きとなっている。
 
 
 
 
 
5ページ目から「吉益周助(吉益東洞)という者が出たり」と呼びすてで批判しています。古方派の文献では山脇東洋先生は師匠の後藤艮山先生と同門の香川修庵先生を『東洋洛語』で呼びすてで批判、そして山脇東洋の息子の山脇東門先生が父親の盟友であった吉益東洞先生を呼びすてで批判です。江戸時代の医家たちは悪口合戦を繰り広げています。
 
 
上記の15ページからは三稜鍼による刺絡も山脇東門先生によって語られています。山脇東門の刺絡は『熙載録(きさいろく)』を書いた垣本鍼源によるものです。山脇東門が学んだ奥村良竹門下には『刺絡編』を書いた荻野元凱もいます。
 
 
 
 
1754年に吉益東洞著『医断』が刊行されます。
 
吉益東洞『医断』
京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
 
 
1757年に畑黄山が『斥医断』を出版します。
 
畑黄山『斥医断』
 
23ページに吉益東洞の鍼灸の記述が批判されています。
 
 
1769年に吉益東洞先生が『医事或問』を書きます。
 
医事或問. 巻上,下 / 吉益東洞 著
 
 
1790年に堀江道元が『弁医断』を出版します。
18ページに『医断』の鍼灸の記述の批判があります。
 
堀江道元『弁医断』京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
 
 
1807年に村井琴山が『医道二千年眼目』で吉益東洞を擁護します。
 
医道二千年眼目編
 
 
1811年に賀屋恭安が『続医断』で吉益東洞を擁護します。
 
『続医断』京都大学貴重資料デジタルアーカイブ
 
 
もっとも面白いのは大塚敬節先生が書いた和田東郭先生の入門エピソードです。
 
以下、537ページより引用。
 
和田東郭はこの吉益東洞の説(左右の腹直筋の攣急は毒の腹証)に疑問をはさみ、いくら薬を飲んでも二本棒の消えるはずはないと考え、あるとき東洞に拝謁して、先生は多年に渡って毒を去る薬をお飲みになっておられるとのこと、先生の腹にはさだめし毒がなくなっているでしょうから、その毒のなくなったお腹をみせていただきたいと頼むが、東洞は言を左右にしてみせない。そこで、それでは患者の腹でもよいから見せて欲しいと頼むと、門人にならねば見せるわけにはまいらないというので、東洞の門人になったと和田東郭の『蕉窓雑話』にある。東郭の疑問はもっともである。
 
 
 
吉益東洞の批判者である亀井南冥と吉益東洞の擁護者である村井琴山が学問では厳しく対立して論争しつつ、生涯の友情と交際を続けたエピソードが論文の最後に取り上げられ、大塚敬節先生がこの論文で本当に伝えようとされたことが伝わってきます。江戸時代の医学論争は本当に面白いです。
 
 

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