経絡治療の歴史

 

竹山晋一郎先生の『漢方医術復興の理論』です。

著者の竹山晋一郎先生は「経絡治療」の創始者の1人です。

『漢方医術復興の理論』の内容は明治時代の温知社などの漢方復興運動はなぜ失敗したのか?東洋医学の漢方鍼灸はどのように社会に位置づけられるか?どのようにすれば復興が可能かのか?を考えたものです。

 

竹山晋一郎先生は1900年(明治33年)茨城県生まれで、1925年に慶應義塾大学経済学部を卒業し、福沢諭吉がつくった新聞社である大阪時事新報社の社会部記者となりました。ジャーナリストとして生きてきたのですが、1927年に結核となり、働けなくなります。

そこで、漢方後世派・一貫堂医学の創始者である森道伯の漢方治療を受けて回復します。

大阪時事新報社に復職してジャーナリストとして働いていたのですが、1936年に大阪時事新報社は解散となりました。

ちょうどその頃、滋賀県「穴村の灸」を継いだ駒井一雄先生は、多忙のため『東邦医学』編集長を探していたため、竹山晋一郎先生は『東邦医学』の編集長となりました。

1939年3月、竹山晋一郎先生は、柳谷素霊、岡部素道、井上恵理、岡田明祐、竹山晋一郎らの「新人弥生会」をつくります。ここで、竹山晋一郎39歳と岡部素道32歳、井上恵理36歳が意気投合します。

以下、引用。

当時、井上(恵理)さんと僕(岡部素道)とで一生懸命に古典を読んだりしていたんだが、『これは一つ経絡的治療というのを考えなければだめだ』ということで竹山(晋一郎)さんが音頭取りで井上(恵理)君と私(岡部素道)とが中心なって発展しはじめた訳なんだ。

柳谷(素霊)先生はこれにおそれをなしてね。「お前ら、そういうことをやってもいいのか?俺は知らんぞ」というような態度を示されてね。ところが井上君と私(岡部素道)はね、「先生、心配するな」。竹山さんは「そうだ、そうだ、この旗印をもって将来、鍼灸界を風靡しなければやる道はない」といって我々を叱咤激励した訳なんです。
※『経絡治療』第21号/昭和45年4月号、7ページより引用。

 

つまり、柳谷素霊先生は完全に一歩引いた状態でした。

ジャーナリストだった竹山晋一郎先生がリーダーとなり、岡部素道先生、井上恵理先生が新しい理論を創ろうとしたのです。

以下、引用。

 

岡部:あれはやっぱり、井上さんと私とでね、素問・霊枢・難経を読みながら確立したんですね。一番初めは(難経)六十九難型でほとんどやっていた訳なんだ。七十五難はあまり手をつけなかったんだね。とにかく六十九難型をみんなに教え込もう。後からまた、いろいろ考え直そうじゃないか、ということでね。だから一経の場合はともかく、その経の補穴をやれと。二経の場合は『難経』と『鍼灸聚英』のあの取穴法ね。あれをもとにして治療をする。

丸山昌郎:補穴と瀉穴があるわけですね。

岡部:そう補穴と瀉穴ね。ここで問題になるのは、柳谷先生はあくまでも一経が虚していても、その経(例:肺虚・肺経)の中で、例えば肺経の火穴(魚際)を瀉せという説を採られていたんです。井上恵理さんは虚している経の中は瀉してはいけない。その代わりに対経を瀉せという考え方を採ったんです。つまり肺経が虚しているのなら、その反対(相克関係:金克木)の胆経とか、あるいは逆に陽経の大腸経を瀉すというような考え方を採られた。

※『経絡治療』第21号/昭和45年4月号、7-8ページより引用終わり。

 

「肺虚なら胆経(金克木)を瀉す」「肺虚なら大腸を瀉す」井上恵理説が個人的には学問的に正しいと思います。

邵輝先生は「春の肝虚に対して胃経を瀉す(木克土)」、「腎虚に膀胱経を瀉す」治法を関西中医鍼灸研究会でよく講義されていました。

『難経・六十九難』は「虚すればその母を補う」と書かれていますが、具体的なツボは書かれていません。

明代、高武著『鍼灸聚英』の中に子午流注開穴法の納子法として、肺虚なら補穴の大淵(金の母の土穴)、肺実なら瀉穴の尺沢(金の子の水穴)が挙げられています。岡部素道先生は『鍼灸聚英』から難経六十九難の配穴をもってこられたようです。

以下、引用。

 

経絡治療がこんなに浮かび上がってきたもう一つの理由はね、やっぱり八木下(勝之助)先生が実際に脈診による経絡治療をされていたという事ですね。それを城一格先生や私が体で感じ、目で見たということ。城一格先生は「非常にいい方法だ」といって裏付けてくれましたしね。そして実行はあくまで井上さんと私が中心になって、そしてここにおられる小野(文恵)先生や岡田(明祐)先生、その他、当時の研究会におられた方達が研究されましてね。
※『経絡治療』第21号/昭和45年4月号、9ページより引用

 

八木下勝之助先生は、1854年(安政4年)に千葉県に生まれました。八木下先生の兄が眼疾を患い、鍼灸の勉強をしていた際に、鍼灸の勉強をはじめました。生涯をただ一冊の本、江戸時代、本郷正豊著『鍼灸重宝記』(1718年)の追試にあけくれました。

虚している経絡に補法、実している経絡に瀉法をするという「一経主義」で、『難経・六十九難』のような相生関係や相克関係を使った補瀉はしませんでした。

八木下勝之助先生を東京の講演に招いた際には、「病には十四経がある。そして、虚実がある。実している経は瀉し、虚している経は補うのです。虚実に対して補瀉すればよいのです」とだけ言って壇上から降りてしまい、参加者は空いた口がふさがらなかったというエピソードがあります。

1934年(昭和9年) 結核になった岡部素道先生はが八木下勝之助先生の治療を受けました。脈診をされて、「肺・脾の虚証」と言われて、尺沢・太淵・足三里・曲池・三陰交・中カンの刺鍼で治りました。この八木下勝之助先生の治療法は、実は、岡部素道先生の「たいやき療法」といわれた経絡治療と同じ配穴です。

 

私の学生時代、梅田善照先生が経絡治療の実技を教えに来られていました。梅田善照先生の経絡治療は、百会・中カン・関元・足三里・三陰交に浅く置鍼して、肺虚証なら本治法として太淵、太白に浅く刺し、10分ぐらい置鍼した後で標治法として肩や腰などの局所に刺していくもので、これは八木下先生の治療や岡部素道先生の「たいやき療法」に良く似ていると思います。

 

『経絡治療』のバックナンバーをハンドサーチしてみると、戦前から戦後あたりの岡部素道先生は金鍼の一本鍼で置鍼せずに、鍼を単刺して補瀉して治療しています。しかし、1964年あたりに、治療院のベッドが増えてから置鍼を多用して、仰向けとうつ伏せで置針中に赤外線をかける「たいやき療法」になるようです。お弟子さんの話では、時代の変化で虚証の患者が増えたので、浅く刺して、長い時間、置針するように変えたとおっしゃっていたようです。

 

1940年(昭和15年)に、八木下勝之助先生による岡部素道先生の結核治療をベースにして『難経・六十九難』と『鍼灸聚英』の配穴を結びつけ、岡部素道「臨床時における脈診と経絡の関係に就いて」が京都府立医科大学で開かれた東邦医学漢方鍼灸夏季講習会で発表されます。『経絡治療』の誕生です。この時の関係者の年齢と臨床経験は以下になります。

柳谷素霊(1906-1956) 当時34歳。臨床経験17年
岡部素道(1907-1984) 当時33歳。臨床経験9年。
井上恵理(1903-1967) 当時37歳。臨床経験16年
竹山晋一郎(1900-1969)当時40歳。無免許で職業は編集者。鍼灸免許取得は1942年(昭和17年)

 

1941年に竹山晋一郎先生が『漢方医術復興の理論』を出版します。内容は漢方が中心でした。

1942年(昭和17年)に竹山晋一郎先生は鍼灸の免許を取得します。つまり、竹山晋一郎先生が『漢方医術復興の理論』を書いた頃は、純粋なジャーナリスト・編集者であり、鍼灸師では無いです。竹山晋一郎先生は、戦後は共産党に入党し、市議会議員・市議会副議長となり、後に共産党に除名されますがジャーナリスト・政治家として優秀なオーガナイザーでした。

 

竹山晋一郎先生は、漢方・鍼灸を復興させる戦略を考えていました。
それは、
(1)局所治療のみであった鍼灸治療に東洋医学的な全体的な診断「証」を入れること。
(2)全国の鍼灸師を東洋医学で再教育すること。
(3)鍼灸師が多くの人を治すことで大衆の支持を得ること。
です。

実際にこの時期の鍼灸は局所治療のみが中心だったのです。のちに東洋はり医学会をつくる福島弘道先生は、局所治療のみの鍼灸(あんまバリ)に絶望していましたが、岡部素道先生の東洋医学的な診断から治療というシステムに心酔したとおっしゃっていました。

 

1941年7月に京都府立医科大学の東邦医学夏季研修会にて以下の発表がされます。

岡部素道「経絡的治療に於ける切診による補瀉に就いて」
井上恵理「経絡的治療に於ける手法に就いて」

これは『昭和鍼灸の歳月』という文献に収録されています。

 

1941年10月には東邦医学会東日本部会で岡田明祐、本間祥白、小野文恵が経絡治療の講義を行いました。

岡田明祐「経絡における邪気侵入部位ならびにその変化」
本間祥白「脈状に及ぼす基因について」
小野文恵「鍼道秘訣集の腹診について」

 

岡田明祐先生は1935年に免許を取得しました。栗城卯太記という元軍医として日露戦争で乃木大将に仕え、失明して鍼灸をしていた師匠に入門し、大船渡市で大鍼や長鍼をしていました。1944年に召集され、戦時中は軍馬の鍼をしていたことで有名です。

岡田明祐先生は1969年に明治神宮前鍼療所と「明鍼会」をつくりました。中曽根康弘や石原慎太郎が患者でした。現在の経絡治療学会・関西支部はこの流れになります。子息の岡田明三は現在の経絡治療学会の会長です。

 

小野文恵先生は1931年に鍼灸免許を取得し、1936年に柳谷素霊に入門しました。小野文恵先生の「東方会」は接触鍼で有名で、小野太郎先生は「国立がんセンター」で鍼灸治療を行っていました。

 

1941年11月には馬場白光や花田傳を中心に東邦医学会九州部会が発足し、久留米市・熊本市・鹿児島市・延岡市で経絡治療が普及されます。また、視覚障害者の世界では、1941年9月に福島弘道先生が小里勝之、山下長一と「盲人経絡治療研究会」をつくります。この流れは「東洋はり学会」や「漢方鍼医会」となります。経絡治療学会関西支部をつくった福本憲太郎先生も、この頃に岡部素道先生に入門しています。

 

1942年4月の『東邦医学』には本間祥白が「経絡治療の治験3例」という論文を発表します。これで、ようやく、『経絡治療』がシステムとして完成しました。

本間祥白は1903年に山形県に生まれ、東洋大学でインド哲学を学びました。巣鴨でホンマ・ベーカリーというパン屋さんをしていたのですが廃業して電気治療をはじめます。1939年に電気治療に役立つ本はないかと半田屋という書店で柳谷素霊『簡明不問診察法』に出会い、井上恵理先生に入門しました。「経絡治療の治験3例」の論文を発表した当時39歳の本間祥白先生は、この論文の時点で、鍼灸を始めて3年目です。

1942年には、木下晴都、小川晴通といった後の科学派の先生方も岡部素道先生に入門しました。

1943年、竹山晋一郎先生は北京の華北煙養療所に阿片中毒患者の鍼灸治療のため、岡部素道先生と釜山・京城・平壌・天津・北京に行きました。

1944年、石野信安先生の東明堂医院内に竹山晋一郎が副所長をつとめる「日本鍼灸医術研究所」がつくられました。石野信安先生は三陰交の安産の灸で知られます。

1945年3月、竹山晋一郎先生が編集長をされていた『東邦医学』が廃刊となりました。

1945年4月、石野信安先生の東明堂医院が空襲で全焼します。

1945年5月、空襲により竹山晋一郎先生の自宅が全焼します。同年8月、日本は敗戦を迎えます。

1947年、GHQのマッカーサーが鍼灸廃止令を出そうとして、石川日出鶴丸先生がGHQを説得します。

沢田流の代田文誌が「鍼灸医学の新しき方向」という論文を書きます。いわゆる古典派から科学派への「代田の転向」です。竹山晋一郎先生は、代田文誌を猛批判します。

1950年、長浜善夫・丸山昌郎が「経絡の研究」で経絡現象を報告し、経絡研究が盛り上がります。

1952年、「皮電点研究会(石川太刀雄・代田文誌)」の米山博久が「経絡否定論」を『医道の日本』で発表し、竹山晋一郎と「経絡論争」を繰り広げました。

1965年、雑誌『経絡治療』が発刊されました。

1967年、もともと経絡治療を学んだ木下晴都先生やその弟子の出端昭男先生が六部定位脈診の臨床試験をはじめ、経絡治療に根本的な疑問をなげかけます。竹山晋一郎と出端昭男の経絡治療をめぐる論争が始まります。

1969年、竹山晋一郎先生が亡くなりました。享年69歳でした。

 

竹山晋一郎先生の臨床記録を見ると、晩学ながらかなりの実力だったようです。玉造三郎さんというテンカンの持病があり治療法が無い茨城県の小学6年生の少年が、テンカン発作を起こしました。病院に往診した竹山晋一郎先生は目じりと耳の間の当容(とうよう)という奇穴にお灸しはじめました。10壮すえると少年は意識を回復し、その後、毎日すえたところテンカン発作がでなくなったと、患者の玉造三郎さんご本人が1980年に上地栄先生に話していたそうです(『鍼灸老舗の人々』11ページ)。

当容は唐代の『備急千金要方』に掲載された上関(GB3)と耳門(TE21)の間の動脈拍動部に取るという奇穴で、精神病に用いると『千金要方』に書かれています。当容をこんな風に使える鍼灸師がいま居るのかというと、たぶん居ないと思います。

 

竹山晋一郎先生は経絡治療夏期大学の講義をいつも経絡治療の定義で締めていたそうです。
「人体の病的変化を経絡の変動として把握し、その変動を鍼灸で調節することによって生命の自然治癒力を助長して治療しようとする医術、これが経絡治療である」

八木下勝之助先生の「病には十四経がある。そして虚実がある。実している経は瀉し、虚している経は補うのです。虚実に対して補瀉すればよいのです」という言葉と同じくらい深いと思います。

 

 

 

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