2018年10月11日『世界伝統医薬網(世界传统医药网)』
「窦漢卿鍼灸理論と儒家の理学の関係の初歩的探求」
窦汉卿针灸理论与儒家理学关系初探
李宝金 黄龙祥 中国中医科学院针灸研究所
《中国针灸》2018年 第2期
中国中医科学院鍼灸研究所の黄龍祥先生の論文です。
窦漢卿(とうかんけい)は金末・元初の鍼灸家ですが、儒学と『授時暦(元代の暦)』で有名な許衡や姚枢と並ぶモンゴル帝国を代表する大知識人です。
窦漢卿は1196年に現在の河北省邯鄲市に生まれ、19歳のときにモンゴル兵に追われて難民となり、河南省で王翁という医師に脈診や医術を学び、36歳の時に山人・宋子華から奇経八脈の交経八穴を教えられます。河南省もモンゴル兵に攻撃され、蔡州で李浩から銅人と鍼法を学びます。さらに湖北省の徳安にて宋代の儒学者、程伊川や朱子の宋代理学を学びました。
41歳で河北に帰り、許衡や姚枢と儒学を探求しながら鍼などの医術を行いました。
54歳でモンゴル帝国・元朝の皇帝フビライ・カーンに呼び出され、政治の世界にも入ります。58歳で李東垣の弟子である羅天益に鍼の補瀉を教えます。66歳で翰林侍讲学士となり、85歳で亡くなりました。
『扁鵲神応鍼灸玉龍経』を書いた王国瑞の父親である王開も窦漢卿の弟子です。「轻滑慢而未来,沉涩紧而已至」「气之至也,若鱼吞钩饵之浮沉;气未至也,似闲处幽堂之深邃」という「気至」「得気」の理論も窦漢卿に始まります。モンゴル時代こそ鍼灸の一大転換期です。
『四庫全書』に「儒の門は宋代に分かれ、医の門は金元に分かれる」とあります。金元四大家、張従正は『儒門事親』を書いた儒学者ですし、朱丹渓も儒学者でした。窦漢卿の鍼灸も宋代儒学の理気二元論にもとづいています。
『鍼灸甲乙経』の皇甫謐は西晋を代表する大教養人です。二十四史の1つである『晋書』にも皇甫謐の伝記があります。
『肘後備急方』の葛洪は『抱朴子』を書いた東晋を代表する教養人です。
『本草経集注』を著し、『神農本草経』を編纂した陶弘は魏晋南北朝を代表する知識人であり、二十四史の1つで魏晋南北朝の南朝を記録した『南史』に名を残しています。
唐代の孫思邈は大教養人として二十四史の『唐書』や『新唐書』に記録されています。
宋代には龐安時が『宋史』に蘇東坡とともに名を残しています。
易水内傷派の元祖、張元素や金元四大家の劉完素、張従正は二十四史の『金史』に名を残しています。
金元四大家の李東垣は二十四史の『元史』に、朱丹溪は『元史』や『新元史』に名を残しています。
元代に『鍼経指南』を書いた窦漢卿も宋の新儒学を学問として極め、フビライ=カーンの皇子の教育係に任命され、二十四史『元史』に名を残しました。
現代中国でも1959年に上海中医学院の教科書『鍼灸学』を書いた裘沛然は、単なる医師ではなく、『辞海』という中国語辞典の編纂にも関わった大人文学者で大教養人です。
江戸時代の日本も、貝原益軒、本居宣長、中江藤樹はいずれも鍼灸漢方をおこなっていました。日本の漢方・古方派は儒学における古学と密接に関連しています。歴代の鍼灸の大家たちはいずれも大教養人なのです。
それは世界中で共通です。イスラム伝統医学の医師ラーゼス、『医学典範』の医師イブン・スィーナー(スコラ哲学者アヴィセンナ)はいずれも大哲学者でした。
12世紀スペインのユダヤ医師・哲学者マイモニーデスも大哲学者です。
マイモニーデスと同時代のスペインのイスラム伝統医学医師、イブン・ルシュドも大哲学者でした。
『ハザールの書』で知られるスペイン・ユダヤ人医師のイエフダ・ハレヴィーもユダヤ哲学の代表です。西洋やイスラム世界でも医学者は万能型知識人なのです。
昔の東洋医学者は天地人の三才に通じていました。江戸時代の寺島良安の『和漢三才図会』では諸外国の文物まで書かれています。人間の「知」はもともとユニバーサルなものです。ユニバーシティー(大学)の語源になるほどです。
ところが1910年、アメリカでロックフェラー財団とカーネギー財団は「アメリカとカナダにおける医学教育」というタイトルの、いわゆる「フレクスナー報告書」を出版します。
それまでのアメリカはメディカル・ドクター(M.D)よりもD.C(ドクター・オブ・カイロプラクティック:Doctor of Chiropractic)やDPM(足病医:Doctors of Podiatric Medicine)や、D.O(オステパシー医師:Doctor of Osteopathic Medicine)やN.D(ナチュロパシー・ドクター:Doctor of Naturopathy)、D.H.M(ホメオパシー医師:Doctor of Homeopathic Medicine)の方が多かったのですが、フレクスナー報告書はアメリカに存在する155の医学校のうち、代替医療医学校120校を廃校にすることを提案します。
そして、ジョン・ホプキンス大学を絶賛しました。この「フレクスナー報告書」はロックフェラー財団からの5億ドルの寄付金によって実行に移されます。それまでの医療職は徒弟制度で学んでいましたが、フレクスナーは学校で解剖学や生理学を学び、正規の教育を受けた「専門職」を提案しました。
アメリカは医学校を州の法律で規制しはじめ、1910年には155校あった医学校が1920年には85校になり、1944年には69校までに減少して代替医療の学校は認可を受けられなくなりました。
「専門職養成としての教員養成 : 「フレクスナー神話」の継承と革新の視点から」
渡辺かよこ
『教職課程研究』 (11), 63-72, 2016-03-18
カーネギー・ロックフェラー財団の資金でできたエイブラハム・フレクスナーの勧告、フレクスナー報告は、医師、弁護士、教師といった「専門教育・専門職」をアメリカで形成していきます。
エイブラハム・フレクスナーの兄であるサイモン・フレクスナーはジョン・ホプキンス大学医学部教授であり、1901年に設立されたロックフェラー医学研究所の初代理事長でした。野口英世をスカウトして共同研究したのはサイモン・フレクスナーです。
サイモン・フレクスナーはロックフェラーと切っても切れない関係にありましたが、ロックフェラーはドイツの製薬会社バイエルやヘキストを合併した製薬会社、IGファルベン・インダストリーを所有しており、フレクスナー報告書によって薬で儲けようと利益誘導する意図が透けて見えます。
人間の「知」はもともと全方位的でユニバーサルなものです。しかし、徒弟制度で教育されてきた医療のプロフェッショナルは1910年代から学校で教育されることになりました。その結果、ごく狭い範囲でしか物事を考えられない「専門バカ」が量産されていくことになります。
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