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東洋医学と科学哲学:全体論と全体主義の20世紀

 
 
2016年フォルカー・シェイド
「ホーリズム(全体論)、中国医学とシステム・イデオロギー:過去」
Holism, Chinese Medicine and Systems Ideologies: Rewriting the Past to Imagine the Future
Volker Scheid著
 
 
以下、引用。
 
これは中国医学、ホリズム全体論、システム生物学が現在、互いに絡み合うようになった歴史的過程への最初の調査である。
そのルーツは、18世紀以降にドイツから発展した2つの異なる、しかし相互に関連し、交差するホリズムの概念にある。
 
 
20世紀は、哲学的には全体論(ホーリズム)、システム理論の時代であり、政治的には全体主義の時代でした。
 
全体主義の一つはファシズムであり、もう一つは共産主義です。
 
20世紀はファシズムと共産主義という全体主義の時代でした。
レーニンは共産党の組織を生物の比喩でデザインし、共産党細胞という組織システムを用いました。これは公安警察に細胞が検挙されても、細胞の構成員は他のメンバーを知らず、再生できるという形式で、アルカイダやイスラム国も秘密細胞システムを採用しています。
 
部分ではなく、全体が優先なのです。
 
ドイツの生物学者、ユクスキュルは生物のウンヴェルト(環境世界)を提唱しました。
 
ドイツの心理学者、ケーラーはゲシュタルト心理学を提唱します。
20世紀初頭に、いっせいに「全体」や「システム」に着目する学問が開花します。
 
1950年代にピークを迎えるシカゴ学派の社会学は、まさにシステムを重視した学問でした。
 
南アフリカ出身でアパルトヘイトを推し進めた哲学者・軍人・政治家ヤン・スマッツが1926年に『ホーリズムと進化』で「全体論(Holism)」という言葉を初めて創りました。
 
教育ではシュタイナー教育やモンテッソーリ教育のようなホリスティック教育が生まれたのも20世紀です。
 
フランス現代思想のレヴィストロースのような構造主義やポスト構造主義も、全体に着目した思想です。
 
文化は織物のようなものであり、一斉に変化していきます。
 
20世紀は「部分(細胞)」を超える「全体」に注目した時代でした。
 
以下、引用。
 
『ホーリズム』という言葉は、「創発」や「有機体論」と関連していることが今日、知られている。1926年にヤン・スマッツは、進化のプロセスとして、全体を描写して部分に着目するもので欠けているものに特別な認識論的重要性を与えた。そして、スマッツはまさに南アフリカにおけるアパルトヘイトの正当化にイデオロギー的根拠を与えるツールだったのである。ワイマール時代のドイツでは、ナチズムとホーリスティック・サイエンスが結びついて、アカデミック学問の世界のメインストリームとなって文化と真剣な科学研究が混じりあった。
 
 
戦前のドイツは、仏教など東洋ブームとなり、ヒトラーはチベット仏教を調査するためにナチス親衛隊のハインリヒ・ハラーをチベットに送りました。これがブラット・ピット主演の映画『セブンイヤーズ・イン・チベット』になります。
 
ナチスのハーケンクロイツは東洋思想からのものです。
ナチスのルドルフ・ヘスはホメオパシーと有機農法の大ファンで、ナチスこそがドイツに代替療法のハイルプラクティカー資格をつくりました。
 
ヨガもブームになり、東洋のヨガからナチス・ドイツの精神科医シュルツ医師が自律訓練法をつくりました。シュルツ医師が強制収容所送りとなった同性愛者の兵士たちに売春婦との性行為を強制したことはドイツ語ウィキペディアに書かれていますが、日本語ではいっさい書かれていません。
 
 
戦前のナチス・ドイツは、まさに全体論が全体主義に転化した時代でした。
 
ドイツのフランツ・ヒュボッター博士は、1929年に『20世紀初頭の中国医学とその歴史的発展過程』を書きました。1881年にワイマール共和国ドイツに生まれ、1906年に医師となり、1912年にフランスでエドゥアール・シャヴァンヌから『中国学』を学びます。
 
以下、引用。
 
(1951年に『中国の癒しのアートにおける全体論』を書いた)オットーは、1929年に中国医学の文献を書いたドイツの医師ヒュボッターを参照しており、リヒャルト・ヴィルヘルムの1929年に出版した『易経(Book of Changes)』を参照していた。
 
戦前の精神科医カール・ユングの弟子であり、エラノス会議の参加者、チューリッヒのユング研究所の講師としてフリードリヒ・シュピーゲルベルクというアジア学者がおり、パウル・ティリッヒとマルティン・ハイデガーの哲学を研究していた。
 
1937年、シュピーゲルベルクは米国に移住し、最終的にカリフォルニア大学バークレー校のアジア研究学部でインドの宗教と文化の教授になった。オットーが漢方薬に関する記事を発表したのと同じ1951年、シュピーゲルベルクと地元の実業家ルイゲインズボローは、サンフランシスコにアメリカアジア研究アカデミー(AAAS)を設立し、アラン・ワッツとともにベイエリア全体にアジアの哲学、宗教、精神修養を広めた。
 
シュピーゲルベルクは、米国に向かう途中でロンドンでアラン・ワッツに会い、AAASの教員に彼を招待するのに十分な感銘を受けた。
 
ワッツの初期の信奉者には、ビート世代の著名人であるジャック・ケルアック、スティーブン・スナイダー、アレン・ギンズバーグが含まれ、彼らは自分たちの世代とそれに続くヒッピーの間でアジアの精神性をさらに広めた。
 
シュピーゲルベルクとアラン・ワッツは、1961年にカリフォルニアのビッグサーにあるエサレン・インスティテュートの設立にも影響を与えた。
これは1960年代のカウンターカルチャーの発展において最も重要な研究所と呼ばれることもあり、その神学校組織はチューリッヒでのユングの初期のエラノスセミナーを直接モデルにしている。
 
エサレンン研究所は、秘教的な講演者たちや活動家が滞在した。特筆すべきは、ドイツ移民でゲシュタルト療法の創案者でありカート・ゴールドシュタイン(ホーリスティック・アプローチの創案者)の助手であった精神科医、フリッツ・パールズである。
 
カート・ゴールドシュタインの著作『有機体論』は、欲求五段階説のアブラハム・マズロウ、ゲシュタルト心理学者マックス・ヴェルトハイマー、フォン・ベルタランフィの偉大な師匠であった。
 
人類学者でサイバネティックス学者のグレゴリー・ベイトソンと、『易経』と『黄帝内経』の翻訳者で道教マスターの馮家福に影響を与えた。ゲーリー・ズーカフとフリチョフ・カプラは、カール・ユングの影響を受けて、アジアの知恵と現代科学の架け橋となった。
 
 
イギリス生まれのアラン・ワッツは、1935年に『禅の精神』を書き、鈴木大拙の影響を受けました。
 
ビート世代のジャック・ケルアックは小説『オン・ザ・ロード』で有名です。
 

 
ゲーリー・スナイダーは京都で臨濟禅を学びました。スティーヴン・スナイダーは村上龍を英語に翻訳した日本文学研究者です。
 
アレン・ギンズバークはウィリアム・バロウズと『麻薬書簡』を書いた詩人です。
 

 
1960年代のアメリカではカウンターカルチャー運動が起こりました。
1961年にカルフォルニア州ビッグサーの海岸にエサレン研究所が出来ました。エサレン研究所に住んでいたゲシュタルト療法の創始者フリッツ・パールズは心臓病に苦しみ、アイダ・ロルフのマッサージを受けて緩解しました。フリッツ・パールズはヴィルヘルム・ライヒの治療を受けていたのですが、ライヒが亡くなってから心臓病に苦しみ、アイダ・ロルフをヴィルヘルム・ライヒの後継者と見なしました。
 
当時のエサレン研究所には、ゲシュタルト療法のフリッツ・パールズや「欲求五段階説」「自己実現」のアブラハム・マズロー、グレゴリー・ベイトソン、建築家のバックミンスター・フラー、「クライアント中心療法」「カウンセリングの創始者」「エンカウンター・グループの創始者」のカール・ロジャースなどがいました。
 
1963年以降のエサレン研究所では、センサリー・アウェアネス(感覚に気づく)のワークショップが多く開かれました。センサリー・アウェアネスを提唱したシャーロット・セルバーが古典的マッサージとボディワークを統合して、オイルマッサージによるエサレン・マッサージをつくりました。シャーロット・セルバーはダンスムーブメント・セラピーにも影響を与えています。
 
 
また、1972年にエサレン研究所ではモーシェ・フェルデンクライスがフェルデンクライス・メソッドを講義しています。
 
フェルデンクライスはロシアに生まれたイスラエル人の物理学者で、1933年にフランスのパリで嘉納治五郎と出会い、柔道を始め、パリに最初の柔道連盟をつくりました。
1942年に30代でサッカーで痛めた膝を自分自身で治すために始めた身体観察で「アウェアネス・スルー・ムーブメント(身体運動を通じた気づき)」と言われるフェルデンクライス・メソッドを創始しました。
 
この時期のエサレン研究所は今と違って世界の心理学の中心地であり、思想的にも深みのあるボディワークの一大中心地でした。
現在のエサレン・マッサージはスピリチュアリティを失った、無免許マッサージの金儲け主義の自己啓発セミナーの集団なので、エサレンのイメージは地に落ちており、残念です。
 
 
1971年にロルフ身体統合研究所が設立され、アイダ・ロルフの活動はコロラド州ボールダーにうつります。
アイダ・ロルフはマッサージの出張治療から始まったのですが、1961-1970年のエサレン研究所時代をくぐりぬけて、10セッションからなる「ボディワーク」や「身体教育」と呼ばれるものに変化していました。
 
1977年にアイダ・ロルフの最初の著作『Rolfing: Integration of Human Structures』が出版され、2年後の1979年にアイダ・ロルフは82歳で亡くなりました。
 
 

 
 
アイダ・ロルフは筋膜をリリースするボディワークを行っていました。
 
2007年にはアイダ・ロルフ・筋膜Fascia研究ファンデーションが設立されました。現在でも『アナトミー・トレイン』を書いたトマス・マイヤーズや、『膜・筋膜 張力ネットワーク』を書いたロバート・シュレップなど、ロルフィングのプラクティショナーがFascia研究をリードしているのは、このような歴史的経緯があります。
 
 
以下、引用。
 
1970年代後半から、中国の知識人は、本質的に中国人であり、超近代的で政治的に正しい科学の概念を明確にするために、サイバネティックスとシステム理論に目を向けた。
ルートヴィヒ・ファン・ベルタランフィ、アルビン・トフラー、イリヤ・プリゴジン、そして他の多くの新しくアクセス可能な西洋の作家を利用し、エンゲルス、レーニン、毛沢東、例えば党のイデオローグである『烏杰』を称え続けている。(アメリカでシステム科学を学び、システム弁証法系统哲学の著作もある中国共産党幹部の)烏杰(うけつ)は、古代中国とギリシャの哲学で『初歩的な全体論的思考』を検出し、このリストに『黄帝内経』を明示的に含めた。
 
明らかに、システムの観点から中国医学について最初に議論したのは中国医学者ではなく、サイバネティックスのバックグラウンドを持つエンジニアだった。
 
1981年、中国の超科学者の1人である銭学森は、国の軍事宇宙および航空プログラムへの貢献により、中国共産党の指導者に直接アクセスし、あらゆる問題について話す力を与えた。彼が選んだのは、中国医学は全体論的な観点から世界を把握するという点でサイバネティックスやシステム科学に似ていると主張した。
 
 
中国ロケット工学の父、銭学森は、1974年に中国共産党によって創設された秘密組織、人民解放軍749局や人体科学研究の507研究所を設立し、気功や中医学の研究をしていました。
気功を研究していたら、 銭学森の名前は必ず出てきます。
 
1934年に北京・清華大学からアメリカのマサチューセッツ工科大学に留学した銭学森氏は、カリフォルニア工科大学で博士号を取得し、1944年にアメリカ国防総省の顧問に就任し、原爆開発のマンハッタン計画に参加し、核開発・ロケット開発を行います。アメリカ軍の最高機密にアクセスできる立場でした。
 
 
ところが、1949年に毛沢東の共産中国が成立し、1950年にアメリカ政府の赤狩りが始まると逮捕され、1955年に中国に強制送還されます。
アメリカという国に忠誠を誓っていた銭学森は、人種差別に激怒して共産主義者となり、アメリカへの復讐を誓いました。
 
当時、まったく科学の遅れていた中国で、強制送還から11年後の1966年には核ミサイルとシルクワーム・ミサイルを開発してしまい、毛沢東の親友となり、国家英雄となり、2012年には映画化されています(映画『钱学森』)。
 
 
銭学森はアメリカのマンハッタン計画に参加し、同時に中国の核開発とミサイル開発に関わるという、20世紀に生きた人物の中でも飛び切りの数奇な人生を送りました。
 
2021年現在の代替補完医療・ホリスティック医学は、20世紀の哲学的潮流と関連があるのです。このフォルカー・シェイド先生の論文は、まさに現代の代替補完医療に至る流れをまとめたものでした。現在は、「統合健康」という言葉が「代替補完医療」や「ホリスティック医療」の代わりに用いられます。
 
 
冷戦が終わって「民主主義と資本主義が勝利した」と高らかに宣言した『歴史の終わり』のように、歴史的には「統合医療」が勝利したというのが流れなわけですが、冷静に考えると、現代の中国の弁証論治や中西医結合はまさに現実に存在する「統合医療」なわけです。

 
「統合医療」への道を歩むのがメインストリームの歴史の流れですが、個人的には「代替医療」というプランBの道を歩いて行こうと改めて思いました。
 
 
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